
今回はソクラテスの弟子にして,アリストテレスの師,アカデメイアの設立者。プラトンです。
なぜプラトンを?
プラトン。なんだか高尚な響きです。
[st-kaiwa1]「僕はプラトン読んでるんだぜ」[/st-kaiwa1]
とか、
[st-kaiwa2]「あの人は,プラトンを読んでるそうよ」[/st-kaiwa2]
とか,
なんだか読んだら偉い,というような感じがします。
というのも,私自身がいわゆる「哲学」というものを高尚なものであると感じ,読んでもあまり分からないだろうと思ってこれまで避けてきたからです。
しかし,今更ながら,避けられなくなってきました。
それは,「孤独な散歩者の夢想」(ルソー)や,「幸福論」(ヒルティ)で名誉の撤退を余儀なくされたからです。
これらの著者は,私たち読者がギリシャ哲学に端を発する思想の一連の系譜を 当然 理解し、身に着けていることを前提にしてこれらを書いています。
だから,いちいちくどくど説明しないのです。
そんなの知っていて当然として、用語や言い回し、比喩という形で内容を「エンコード」します。
ちょうど,研究者が論文を書くときに,一般人が読んでわかるような平易な説明をせず,短い専門用語でさっさと効率的に説明するようなものです。
読む人には,書く人と同じだけの知識の土台が必要とされているのです。
そのようにして「エンコード」されたさまざまな書物は,要求されている知識なしに読むと「とりあえず読んだ!あらすじはとらえられるけど、実は何が言いたいのかよくわからん。」という結果になり,私はなくなく撤退したのです。
これらを上手に「デコード」し、さらに楽しめるようにするには,ギリシャ哲学から読んでおかないといけないじゃないか。
そんならプラトンだろう。西洋の哲学の歴史は,すべてプラトンの注釈にすぎない,という言葉もあるではないか。
調べてみたら,どうやらこの「ソクラテスの弁明」が初期の作だそうだ。
じゃ,読もう。
これが私の「ソクラテスの弁明」の読書の動機です。
いつもの通り「また何か始めた」のノリではあります。
[st-kaiwa2]また何か始めた![/st-kaiwa2]
アマゾンで岩波文庫版を取り寄せて読みました。
実に薄い本です。本文は102ページしかありません。
「ソクラテスの弁明」と「クリトン」がいっしょに収められています。
ソクラテスの弁明
「ソクラテスの弁明」は無実の罪を着せられたソクラテスが,「悪法もまた法なり」といって毒を仰いで死んだという、あの有名なお話についての,裁判での弁明の話。
「クリトン」は,牢獄にいるソクラテスを逃がそうとする友達クリトンが、ソクラテスとの対話により,それを断念する話。
ソクラテスは、偉そうな顔をしている人に会っては議論をなげかけ、実はえらくもなんともないということをさらけ出して回る人でした。
ソクラテスにしてみれば,彼らの良心の目を覚まさせ,真に幸福な世界の扉を開けようとしていたのですが。
それが彼が思う彼が神から与えられた使命であったのです。
だから、ソクラテスを目の上のたん瘤のように嫌う人も多かったようです。私だって、道を歩いていて「やあ、Lyustyle君。メルマガをかいているんだってね。読んだよ。ところで・・・」なんてあのソクラテスから話しかけられたら絶対いやです。
みんな、わかってるんですよ。自分の正体だとか、レベルだとか。わかっていながら演じているんですよ。それが人間の社会じゃないですか。
それをほじくられるわけです。
「わかったから皆までいうなよ。」と思っていても最後まで許してもらえません。
私は逃げるでしょう。
その対話につきあわないといけない筋合いはありません。
しかし、その雄弁は若い人々を引き寄せました。若者たちは、したり顔した大人たちがソクラテスから論破されるのを見て喝采をしたのではないでしょうか。
今も昔も同じですね。
だから、ソクラテスは、たくさんの人から疎まれました。
ソクラテスを嫌う人たちは、いろいろと罪を着せてソクラテスを排除しようとしたのです。
ソクラテスが裁判で弁明する場所には,プラトンも居合わせたので,その力強い,また歯に衣着せぬ雄弁を目の当たりにしています。
2回の判決のうち、1回目の判決はほぼ半々くらいで無罪になる可能性もあったのです。
しかし,ソクラテスは無罪になるために言葉をやわらげたり、哀願したりするような姿勢は全く見せず、むしろ2回目の判決までの弁明の中で次々に火を吐いたので、とうとう大きな差で有罪が決まってしまいました。
当の本人はケロッとして死刑判決を受けた者としての辞を述べるのですけれども、見ているプラトンは気が気ではなかったでしょう。
そしてその弁明を正確に表し、ソクラテスの正当性を後世に伝えようと思ったでしょう。
それが「ソクラテスの弁明」です。
クリトン
プラトンは弁明の場には居合わせているのですが、「クリトン」では,その場に居合わせていません。
「クリトン」は、牢獄につながれているソクラテスと、それを脱獄させようと説得に来たクリトンの二人だけでの話です。
どこまでが本当でどこからが想像であるのかはよくわからないというところです。
しかし,
「わが師,ソクラテスなら,このようにクリトンと対話し,自らの主張を雄弁に語ったであろう」
という自身に満ちた表現で、そのソクラテスの生き方の完結する様子を伝え,弁護したのでした。
プラトンの巨大な森に分け入る
若きプラトンにとって,ソクラテスの死はその後の,自分の生き方を決める決定的な要因になったようです。
「思うに,プラトンは,ソクラテスの生と死において真の哲人の何たるかを体得したのである。」
(訳者解説)
それからのプラトンは,後に西洋哲学の源流と言われる哲人としての道を歩んでいくことになります。
そのスタートにして,私の哲学の森への散策のスタートでもある「ソクラテスの弁明」のお話でした。
さて、プラトンという大海に漕ぎいでた私は、次の初期著作「メノン」を注文し、昨日届きました。(注 メルマガ掲載当時)
これは「徳は教えられるのか?」というメノンという人の問いにソクラテスが答える内容だそうで、これもまた薄い本です。
実はソクラテスの弁明もクリトンも、1回読んで筋を抑えただけです。おそらく私の読み落としとか、スルーしているところとかきっとたくさんあるはずです。
先日紹介したライプニッツや本居宣長のすすめる勉強法「こだわらず立ち止まらずにさらっと読了し、なんども繰り返し読む」を使わねば、本当にはわからないでしょう。 ( 下の記事の中で,紹介しています )
再読です。
しかし、ここでいったん私は前に進み、手に入るプラトンの著作を一度全部読んで「読んだつもり」になってみたいと思います。
メルマガでのLyustyleの読書も、いったんプラトンから離れ、またしばらくしてから改めて触れたいと思います。
私はそんな読書を続けているのです。
4つの時代の本を同時に読む
◇
昨夜、「二宮翁夜話」を読み終わりました。(メルマガ掲載時)
週末に感想を書いて、来週金曜日のLyustyleの読書で紹介します。
今週読み始めた本は、清水幾太郎氏の「本はどう読むか」
これは何度も何度も読み返してきたほんで、ページは黄色くなりぼろぼろになっています。
これはその次のLyustyleの読書で紹介される本です。
これら、メルマガのルーチンとは別に、20冊平行読書という手法で本をすきあらば読んでいるのですが、つぼにはまっていて手に取る時間が多いのは
「谷崎潤一郎訳源氏物語」
「細雪」
です。どっちも谷崎ですね。
谷崎潤一郎についても書評を書いています。
2000年前のギリシャの哲学者の本と、
江戸時代の荒村回復コンサルタント(二宮尊徳)の話と、
1000年前の日本の王朝の話と、
昭和の初めごろの姉妹の話。
これをを同時に読むと、これがまたいろいろ頭の中でちかちかするんですよね。
あとは、「断腸亭日乗」は寝る前の楽しみでつらつら読んでますし、
何年も前のグラフィックデザインについての本を取り出して、なでながら見ることもまた近頃多いです。
こんな、あれ読み、これ読みの読み方だから、いろいろ読んでいるみたいですが、理解は薄いですよ。でも再読すればいいのです。
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