私のメルマガ「知的迷走通信」では、毎週金曜日は、私が手に取った本をご紹介していました。現在はお休み中です。
その書評群の中から少しずつこちらへ転載する企画。
今日は、ジャン・ジャック・ルソーの「孤独な散歩者の夢想」です。
「散歩」という言葉にひかれて
「とんでもない本を手にしてしまった」
これが僕がこの本を開いた時の感想です。
僕は、この本を
「あのルソーも散歩をしながら思索したんだな、散歩は大事だもんな」
と思いながら軽い気持ちでAmazonから注文したのでした。
僕は「ウォーキング読書」だとか、「ライティング・ウォーク」だとか名前をつけて、散歩を大事な知的生活に位置づけています。
カッコつけてるだけで、大したものではないのですが、それにしても散歩をすることが重要な思索や生産を行わしめるということは周知の事実。
「天才たちの日課」というとんでも無く大量の天才たちの日課を渉猟した著作があります。
その散歩の箇所にハイライトしただけでもおびただしい量になります。
すなわち、偉人とか天才とか、何かを生み出した人たちの多くが散歩を大事な種として位置付けているのです。
散歩を愛するものとして、私はこの「天才たちの日課」という本を面白く読みました。
そういう本の仲間と考えて、私はこの「孤独な散歩者の夢想」を注文したのでした。
文の意味がわからない
結果は大変なことになりました。
今回のは、いつも書いているような「読者感想文」には到底なり得ません。
何が何だか理解できないのです。
「孤独な散歩者の夢想」は、「エミール」の出版に端を発する逮捕命令によりパリを追われていた時に書かれたものです。
パリを追われたルソーは、8年間の間、スイスやプロシアなどを転々としながら安住の地を求めます。
書名の「散歩」とは、心の安住の地を求めて回る精神の散歩であったわけです。
書いてある言葉は紛れもなく日本語訳です。
しかし、何が書いてあるのかわからない。指で一文字ずつ抑えながら一文一文噛み砕くように読んでもわからない。
一文が長いこともあるし、比喩の意味自体がわからないところもあるし、反語的な書き方の意味がわからないところもあるし。
「〜だということだと言えるのかもしれない、など、誰が言えないとでもいうのだろうか(いや、言えない)」
そういう箇所がずっと続くのです。
しかし、読み通す
当時の社会背景や思想背景を理解している人でないとわからないに違いない。
本には読む順序がある。少なくともルソーのことをほとんど知らない私が手に取るべき本ではないことはわかりました。
わたしは、この本を楽しんで読むのはやめにしました。
それでも読むのをやめることはしないでおこう、ちゃんと読み通そうと思いました。
何らかの縁があってこの本を手にとったのだから、なんとか読み通すことにしたのです。
感興が沸いたら読むという方法では絶対読み通せない本ですので、OmniFocusに1日1章セットして2週間で読み終わらせることにして、毎日淡々と読みました。(嫌だなーという日もありました)
読み進めるうちに少しはわかるかた思いながら読みましたが、やはり、わかりません。
部分的にわかるところ、共感するところはたくさんありましたが、全体として腑に落ちません。
そもそもこの本は一体どんな目的で書かれたのだろうか・・・それすらもわからないままでした。
挙げられている十の散歩は、なんらかの関係性の中でつながっていることはうすぼんやりとわかるのですが、それぞれを明確に関連付け、価値づけるのは、当時の思想、背景等の素養のない私には到底無理でした。
それにしても、ここまでわからないものなのでしょうか。情けない気持ちになりました。
精神分析学によって初めて理解
しかし、それで良かったのです。
なんと、ルソーのこの本を理解するには、20世紀に入ってからの精神分析学の台頭を待たなければならなかったとのことです。
つまり当時の人たちも、同時代に生きる人としての呼吸でわかる理解の仕方はできても、ルソーの心のひだまで理解することはできなかったのです。
とは言っても、彼に影響を受けた文学者、哲学者、政治家、思想家は星の数ほどあるのですが。
当時の人に、彼を「理解できない狂人」と言った人もいます。
その人は、むしろ、よく読めた人だったのでしょう。よく読めたからこそわからなかったのです。僕のわからないとは違います。
そしてまた、21世紀の今でも全てが解明されているわけではないといわれています。
ルソーの張った根は、19世紀20世紀を超えて、21世紀の現代思想にまで届いていると言えるのです。すごい人です。
・・・ということは、わたしが読んで全くわからなかったというのは、仕方のないことのわけです。
私の読み方
では、わたしの読み方はどうなるのでしょうか。
それは、ところどころに垣間見える、今のわたしに共感できる部分についての、部分的な読み取りだということになります。
たしかに、部分的には本を閉じてじっくり考えたり、パッと目の前に素晴らしい風景が現れてうれしくなったりということはいくつもありました。
しかし、この本をそのような紹介の仕方をしても、この本の紹介をしたことにはならないと考えました。
そこで、この辺で終わりにします。
いつか私が、部分的な読み取りと共感を積み重ねてのち、ルソーをもっと体系的に理解できた時まで、その紹介を待ちたいと思います。
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