この記事は、メルマガ「知的迷走通信」で連載していたLyustyleの読書に掲載したものの転載です。
今回は,日記に関する本「日記をつける」です。
私は,子どもの頃から日記をつけることをこよなく愛しており,1989年以降はデジタルによる日記をもう30年以上続けていますし,2000年頃からは家族4人での家族日記をつけてきています。
何と、21年間も、家族で回しながら日記を書き続けてるんですよ。
上の息子など33歳くらいになるのに、うちに帰ってきたら容赦なく日記の順番が回ってきて、当たり前のように書いてます。
僕は、日記文学も大好きで,「◯◯日記」に目がない,ときています。
世相好きの私だから,書かれた背景を想像しながら読むことを至上の喜びとしているのです。
日記をつけることも読むことも大好きなそんな私ですから,2017年の春、「そうだ,日記に関する本を書こう」と思い立ちました。
そのためにはもっと様々な人の書いた日記を読もう,また,昔の人の書いたものも,外国の人の書いたものも,さらに,日記そのものを題材にした本も含めてありとあらゆる日記関係文献を渉猟しようと志しました。
Amazonでは,まだ読んだことどころか存在さえ知らなかったような日記がたくさん見つかり,手当たり次第に買い求めて読んできました。
「夏目漱石日記」「断腸亭日乗」「森の生活」「江戸お留守居役の日記」「ピーブス氏の秘められた日記」「元禄御畳奉行の日記」「武士の絵日記」「菅江真澄の旅と日記」「奥の細道」など,本人の書いた日記を読み継いでいきました。
そうしているうちに,それらの日記を何らかのやりかたで位置付けたくなりました。
そこで日記の「解説本」的な本を探していた時にこの本を見つけたのでした。
著者の荒川洋治さんは,現代詩作家,随筆家です。
詩集,エッセイ集,書評集など,数多くの著作があります。
それにしてもまあ,よくここまで日記を読んだものです。
ここには,私が知らなかった様々な人の日記が紹介されています。参考文献にあげられた日記でも,古今東西併せて50近くの日記が挙げられていました。
荒川氏本人も日記を書かれるのですが,まあ,本当に人の日記をよく読まれ,そして整理されています。
著者の荒川氏は詩人でありながら文芸評論も長くされているので,いきおい,数々の作家たちの来し方としての日記を目にする機会が多かったのでしょう。
これらの中から,日記のいろいろ,日記に何を「つけるか」,日記の構成要素,日記からの展開,日記に表れる個性などにまとめられています。
中でも,一章を割いた「日記はつけるもの」というとらえ方が心に残りました。
日記は,書くというよりも「つける」を多く使うとあります。確かに,私も日記を「つける」という言い方をします。
それは,「つける」はしるしをつける,しみをつけるなど,あとまで残すという感じがあるからであって,だから日記は「つける」なのだと思うと,述べられています。
また,一日単位とか,日付,曜日,天気,気温など,ここにこれを書くという枠がありますが,これも「つける」がぴったりです。
「書く」は形式を選ばないが,「つける」は枠を必要とするのです。
私は,あまりこういうことを考えたことはありませんでした。
しかし,このようなことに目をつけると本が書けるのですね。
古今東西,どの時代でもどの国でも人は日記をつけてきました。
それはなぜでしょうか。うれしいからでしょうか。楽しいからでしょうか。義務感からでしょうか。それが自分のスタイルだからでしょうか。たんなる習慣からでしょうか。それとも何らかの使命感からでしょうか。後から読んでもらおうと思ってでしょうか。絶対に読まれたら困るという思いからでしょうか。
実に複雑です。
しかし,人間は,その本性において日記をつけるのです。
そんなことを考えさせられました。
さて,この本を再読してさらに思ったことがあります。
これだけ大量の日記を読んでいると,情報がどんどんたまり,ひろがり,収拾がつかなくなるものです。いわゆるエントロピーの増大というやつです。
そうすると,それを束ねるのはとても困難になります。
いったいどんな観点からそれらをまとめればいいのか,わからなくなるのです。
荒川さんは,どのようにしてこれらの日記についての増大した情報を束ねることができたのでしょうか。
日記を読むときに,先のにべたこの本の章だてをカテゴリーとして,それにあてはめていったのでしょうか。
それとも,情報が増大するに任せて,あとから,それらの情報をKJ法的にまとめていきながら内容を整理したのか,そんなことが気になりました。
実は,今の自分がそのような状態にあるからです。
日記が好きだから日記についての本を書こうとしてさまざまな日記を読んでいると,それらをどのような「とじひも」で綴じたらよいかわからなくなるのです。
しかし,その実,あまり気負わずにすいすい筆から流れ出るまま書かれたのかもしれません。こねまわした感じがせず,平易に読めるからです。
きっと楽しみながら書かれたのでしょう。読んでいてとても楽しい本でした。
さて,日記の評論については,ドナルド・キーン氏の名著「百代の過客」があります。
ドナルド・キーン著作集の第2巻まるまる,キーン氏の日本日記論です。大著であり,まだ読み上げていいないので,ここでは述べませんでしたが,そのうち,この本について書ける日が来たらいいなと思います。
また,この記事を書くにあたって,紀田順一郎氏の「日記の虚実」も併せて読みました。これは,今回のメルマガを書くにあたって,新たにAmazonから取り寄せたものです。
こちらは葛原勾当,樋口一葉,徳富蘆花,永井荷風,岸田劉生,竹久夢二,野上彌生子,伊藤整各氏の日記から,その人となり,そしてその背景となる歴史を編みながら掘り下げた実に骨太の読み応えのある本です。
併せて紹介しておきたいと思います。なかなか凄惨な日記もありますよ。
人間はなぜ日記を書くのか,そして,Lyustyleはなぜ日記を書くのか,あらためて考え直しを迫られました。
私は,今,毎日の日記をつけながら「いったい私は,なんでこのように日記をかいているのだろうか」と問いながら書いています。
さて、先に書いた、日記に関する本を書くということは一体どうなったのでしょうか。
結果的に,私が日記本を書くことはやめました。
日記に関するすばらしい記事をたくさん書いていらっしゃる「ゆうびんや」さんが日記に関する本をKDPで出されることを知り,きっと私よりもゆうびんやさんの方がはるかによい本を書かれるだろうと思ったからです。
そして、やはりその通りでした。すばらしい本です。日記を書きたくなります。
でも、デジタル日記34年、家族日記21年のわたしです。何かかけることがあるかもしれません。いつか、わたしも日記論をかけたらいいなと思っています。
更新履歴
2019-9-3 公開
2021-3-19 現状に合わせて追記
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