メルマガ189で配信したものに少し書き加えたものです。
古典と名の付く書物など、この歳になるまでろくに読んだこともないのにこんな記事を書くなんてと言われそうです。
だがしかし、そういう私であるからこそ言えることがあります。私,今から述べるようなことを考えるようになって古典をどんどん読み始めたんです。
まあ、しばし耳をお傾けください。
古典はたまたま残っただけかも
古典は「古典」と言うだけで何かありがたいもののように感じませんか?
長い歴史の中で淘汰されて残ってきた価値あるすごいものだと言う捉え方ですね。
その歴史や風格、万人が読んで残っていた偉大なものという感覚から、古典って言うものは良いものかもしれないけども、難しいもので自分には理解できないものじゃないかと言うような感覚が沸くのも事実です。(きっぱり。わたしがそうだからね)
大きな猫の前で小さくなっているネズミのような感覚と言ってもいいでしょう。
自分が読んでわからなかったら、わからない自分が悪いんだみたいな、そのような感覚になることがあります。
でも、そういうふうに考えて古典読むことから遠ざかってしまうのなら、やっぱりもったいないものですね。
そこで、このように考えてみたらと思うことがあります。
それは、
[st-kaiwa2]「古典と言うのはたまたま生き残ってきただけの作品であって、偉大だから残ってきたわけじゃないものもたくさんあるにちがいない」[/st-kaiwa2]
という捉え方です。
読まれもせずに本棚の中に代々ずーっと並べられてきて、それが当主が死んだ後もいつの間にか100年200年と受け継がれていって、しばらく経つうちに、だんだんはくがついてきて、これは昔書かれたすごい本だ!みたいに思われるようにになって、それでますます拍車がかかって古典古典と言われながらみんなが読むようになったと言うこともあるかもしれませんね。
また、たまたまその本が戦災に合わず、焼けずに残ったからかもしれません。もっとすごい本が他にもあったのにもう焼けてしまってなくなっていると言うことだってあるのではないでしょうか。
古典の前で小さくなるのはもったいない
そう考えたら古典と言うだけでそれがいかにも素晴らしい本であるようにおもう必要はないのかもしれない。
たいした内容じゃないのに、みんなが古典と言って祭り上げているだけかもしれない。
そんなふうに思ってみてもいいんじゃないでしょうか?
だから、古典を読んだけど、わたしには何の感興もわかないし、学べることもないしと思っても何の差し支えもないわけです。
自分が読んで面白いと思うほどのよい本は実はもう何百年も前に焼けて、この世からなくなってるかもしれないのです。
たまたま残っている古典と呼ばれる作品が自分に合っていればそれはそれで儲けもの。面白くないからといって古典を理解できないとわたしが悪いと思う必要はないと思うんですね。
だから、なんの後ろめたいこともなく「面白くない」と堂々としているといい。
ただし、数年経ってからまた読んでみることです。
もしかしたら、その時はおもしろいとおもうかもしれない。
そうだったら、儲けものです。自分の知的ななにかがきっと成長したのです。
思わなかったって心配ありません。
たまたま焼け残ってきて、みんなが古典だと祭り上げているだけかもしれませんからね。
[st-kaiwa2] 「おまいう」[/st-kaiwa2]
[st-kaiwa1] 「すみません」[/st-kaiwa1]
更新履歴
2018.5.31 公開
2018.7.14 タイトル更新
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