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本を読んでもわからない時の、根本を埋める読み方

知的迷走日記保管庫

京都の龍安寺に「我、ただ、足るを知るのみ」と書かれたつくばいがあることはご存知でしょう。

何でもかんでも欲せず、まずは自分にとってなにが必要なのかをしっかり見極めなさい、という知足の心を、表したものとされているようです。

二宮尊徳の、「推譲の道」にも通じますね。

しかし、こと、本を読むときには、「我、ただ、足らざるを知る」でやっています。

今日はそんなお話です。

読めば読むほど脳内が混沌とする

本を長年読んでいると、混沌としてきます。

時折、言語化してアウトプットしないと、なにやら「わかった気がする」という雲のようなもので頭がいっぱいになってしまって、混沌としてきます。

・・・で、時々文章化してみるのです。

ぼんやりとでも頭の中に「あれ、こんなこと他の人も言ってたな」などとどうことはありますが、アウトプットしていないと「そんな気がする」で終わってしまい、なかなか繋がりません。

そのためのツールとして最適だと思うのがScrapBoxだと思います。

「気がする」を明確に参照できる形で繋いでくれるからです。

そうは言っても、いつもいつもScrapBoxにアウトプットしているわけではないので、やはり混沌としたままのことの方が多いです。

コンテキスト・ノートで残している「つめあと」

混沌とはしてきても、物理的な「つめあと」はあちこちに残してます。

本の折り目であったり

workflowyであったり

Evernoteであってり

Twitterであったり

手帳であったり。

私は、情報を一つところに集めるということは断念しています。

でも、どんなところにどんな爪痕を残しているのかというのはおぼろげに覚えているので参照できるのです。

この「コンテキストノート」という概念で脳内に情報を管理させてます。

だから、私にとって、混沌としていることは実は常態であるわけです。

アウトプットし続けても混沌とし続ける

しかし、いざ何かを著述するとなれば、これらを集めて来なければなりません。

あちこちに散らばらせたコンテンツのタクスフォースを組むわけですね。

そうして参照しつつ、混沌としたものに言葉としての形を与えていくわけですね。

時間はかかりますが、僕みたいな整理が得意でない人間には着実な方法です。

でも、いくら文章化し、言語化して「わかった」に、変えていっても、頭の中の混沌は無くなりません。

むしろ拡大する一方です。

混沌としているということは、知と知とが繋がっていずに言語化されていないということなので、わからないことが増えているといってもいいと思います。

これは大事なことで、わからないことが増えているということは、実は前進であるというのはお分かりのことと思います。

「何がわからないかがわかる」ということは、わかることの第一歩だからです。

そこを埋めていけばいいのです。埋める場所がはっきりしたのです。

昨年の今頃、ヒルティの幸福論やルソーの孤独な散歩者の夢想を読んでいて、何が何だかさっぱりわかりませんでした。

それで悶々としていたのですが、

わからない原因は、私の中にギリシャ哲学から始まる西洋思想史という作用が全くないために読めないのだということがわかりました。

それからプラトンから始まるギリシャ哲学を読み始めたということがありました。

これを読んだら少しでもヒルティがわかるかもしれないという期待からです。

それでわかるようになりました、というわけではないのですが、道は示されたわけで、私のテーマの中に西洋思想史の素養を土台として、近代の書を読んでみたいというテーマができました。

そのこと自体大きすぎて混沌としていてつかみどころがないのですが、書を選ぶときの楽しみではあります。

混沌とすることは楽しみである

本を読むとどんどん頭のなかが混沌としていく。

知らないことが増えていく。

何にも知らない私が一層際立ってきて、だんだん謙虚になりますね。

だんだん偉くなるというより、だんだんわからないところが増えていく。

足らざるを知っていく。

それが本を読む良さの一つなんだろうなぁと思いつつ、カレルの「人間この未知なるもの」を読み進めていてそう思いました。

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