読書法の本などによく書かれていることとして、面白くもない本を最後まで読む必要はない、数ページ読んで面白くなければ、縁がなかったと見極めをつけて次の本を読みなさい、というものがあります。
一冊の本を最後まで読まなければもったいないという感覚をすて、むしろ時間が勿体無いと思うように考えようと。
大筋のところ賛成なのですが、手放しでそれを賛成できない気持ちもあります。
時には、全然わからなくて面白くもないけど、毎日時間とページ数を決めて淡々と読み進めた挙句に読み上げるという経験も必要なのではないかと思うのです。
僕が夕食後のテーブルで毎晩10分間行なっている、「知的鍛錬読書」というのがそれです。
おそらくそんな読み方をしてなければ、新古今和歌集を読み上げたこともないと思うし、本居宣長の「うひやまぷみ」、「源氏物語」など開きもしなかったと思うのです。
何が何やら全くわからないけど、読んでいくうちにちょっとばかり味がしてきて、そのうち美味しく感じるようになる。そういう読書のあり方を信じて行なっているものです。
新古今和歌集がまさにそれで、読み始めた時には全く面白くなかったのですが、だんだん面白くなり、読み終える頃には1つの世界を手に入れた気がしました。
「うまくない。ぺっ」と吐き出して、噛むのをやめていたらそのうちじわっと染み出してくるうまさを感じることはなかったでしょう。
僕は並行読書として20冊ほどの本を常時家のいろんな場所に用意しており、その時の気分で読みたい本を読んでいます。
20冊並行読書です。
これは、繰り返して読み続ける「至高の一冊」に出会うための読み方です。
ですから、読了を目指しません。
しかし、面白さが分からなくても読了を目指す読み方も必要だと思っています。
読了予定日から逆算して1日何ページまでと決め、オムニ・フォーカスやらThingsやらにセットして毎日地道にたんたんと読み進める、という読み方です。
「古典」と呼ばれるような本は,この読み方が適しているように思われます。
古典は、昔から古典だったわけではなく、書かれた当時は娯楽としての読み物だったものも多いのです。
源氏物語なとはまさにそうですね。
また、ドストエフスキーの本などもそうです。
しかし、現代では、それらの本は当時の人が当然のように持っていた文化的、宗教的な背景や素養がないために、何がなんだか分からない、ということがあります。
だから、読んでいて面白いと思えないわけです。
そんな本こそ、途中で吐き出さずにちゃんと最後まで噛み続けることで味わえるものもあるんですね。
更新履歴
2018-2-27 公開
2020-6-20 追記
コメント