メルマガの方で、九州国立博物館で行われているラスコー展に行って考えた妄想を楽しんで書きました。
あんなに深く、光も入らない場所、這って入らなければならない区域に、何でわざわざ絵を描いたのかという話です。
当然、見せようというよりも、呪術的な意図から描くことそのものに意味があったのだという説が有力なようです。
なるほど、と思うわけですが、ここから妄想が炸裂します。
「いや、これはやはり見せようと思って描いたもので、ラスコー洞窟は観光客相手に作られたシアターかお化け屋敷だったのだ」
という妄想です。
きっと、牛の皮一枚とか、そんな木戸銭を払って洞窟に入って楽しんだのに違いない。ラスコー壁画はそのために描かれたのだ、と力説しました。(妄想です)
すると、早速次のようなツィートをいただきました。
ラスコーの洞窟に絵が描かれた時代は、「自分の描いた絵を誰かに見せる」という意識は一般的なものだったのかしら?
そんなことをふと思いました。#知的迷走通信 #cmtsn https://t.co/kYKn6fZ1OF
— クリヤ (@KriyaMariko) 2017年8月8日
これは面白いなーと思いました。
そもそも、描いた絵を人に見せるという感覚が、当時の人類にあったのか?
ラスコー洞窟の絵の描かれ方からすると、見せようなんて気はなかったと言えるのではないかというのが当然の帰結であるかのように思えます。
ところが、私は少し違った見方をするのです。
[st-kaiwa1]「彼らは絵を見せたいと思って描いた」[/st-kaiwa1]
これです。
この記事では,対話による質問が以下に面白い発想を引き出したのかということについてお話します。
PodCastでもお話しています。聞くこともできますのでお試しください。
さて,あんなに暗くて行くのにも苦労するようなところに描いてあるのに、どうしてその絵を見せたいと思って描いたというのでしょうか。
それは、彼らがサピエンスだからです。
※ここに掲げた写真は,すべて許可を得て撮影しています。撮影許可ポイントが設けてある場所で撮影した写真です。
サピエンスは絵を見せたがる
ここでわざわざサピエンスという言葉を使ったのは、サピエンス全史を読んでの影響です。
つまり、私たちは行動のかなりの部分で遺伝子のプログラムによる自動運転が行われている、ということを意識したものです。
そのプログラムによると、私たちは生まれて一年ほども経つと、誰からも教わらないのに鉛筆を持つと点々を打ち始め、そのうちぐるぐるやり始め、ある日まるを描くようになります。
そしてそのまるを指差して「タータン、カーやん」なんて言い始めるのです。
それは感動的な「突然の日」です。
そうなるとすぐに丸の中に点が打たれ始め、人の顔に近くなります。
顔から手足が生え、明確に誰かを指した物語が語られるようになります。
誰からも教わらずにサピエンスはここまで自動運転でくるのです。
そして、その自動運転には、「見て!見て!」もセットとして含まれているんです。そうでしょう?「見て!見て!」と言ってくるでしょう?
私たちサピエンスは、何か描かざるを得ない遺伝子を持っており、何か描いたら見せずにはおられない遺伝子を持っているのです。
ラスコーのクロマニヨン人たちも、私たちの直接の祖先である以上、同じ遺伝子を持っていました。
今の人たちと変わらない風貌で,しぐさ,顔つきも同じです。
行動の仕方、感じ方などは今とまったく関わらないのです。(考え方は時代や環境によって変わります。それは人間がコントロールする部分だからです)
彼らはあれほどの絵を描いた以上、それを誰かに見せたかったはずです。
サピエンスですから。
「見せたい」と「見せよう」は違う
ラスコー人たちは、遺伝子レベルでは、せっかく描いたあれほどの絵を誰かに見てもらいたかったはずです。
でも、「見せよう」と実際に行動を決めるのは、顕在意識です。それは属している文化によって決められます。
もしラスコー人たちの文化が、「この絵は描くことに意義がある。人に見せてはならん」という文化に属していたのなら、彼らは「見せたいなー」と思いつつも、見せないという行動を取らざるを得ません。
遺伝子のプログラムによる自動運転からマニュアル運転に切り替わるのです。
彼らがあれほど奥深く、それも這ってまで行かなければならない真っ暗な場所にあれほどの絵を描いたということは、やはりこのような状況を仮定せざるを得ません。
すなわち、「見せたい、でも、見せない、でも見せたい」
これらの絵が描かれた状況から見て,彼らは、「見せない文化」に属していたのでしょう。
同じ時代に生きた同じサピエンスであるオーストラリアのアボリジニは、自分たちがとった魚を何万年という長い時間をかけて「メインギャラリー」と呼ばれる壁に描き続けました。
それは圧巻の眺めです。20数メートルもある岩の壁に、悠久の時の流れを変えて、彼らの「今日はこれ、とったどー!」「ドヤ!俺はこれだけの獲物を仕留められるんだ。すごいだろう!」「私だってこんな魚とったんだから!」というような声とともにおびただしい魚たちが描き重ねられているのです。
とった!描きたい!見せたい!ドヤ!に基づく何万年に渡る行動の積み重ねです。
そしてそこには紛れもなく「サイン」が添えられていました。
ハンドプリントです。
サインかどうかはわかりませんが、自分というものを残そうとした気持ちの表れであることは伝わります。
アボリジニたちは、「見せる文化」に属していたのです。
実際のところ、どうなのか
上の文章は、これも私の妄想です。考古学者や歴史学者、文化人類学者などの専門家ではない私の言葉は、(当たってるかも知れないけれど)妄想でしかありません。
でも、人間の行動という面から考えたら、遺伝子による潜在意識化における自動運転は当然ありますから、上の妄想はあながち妄想とは言えないかも知れません。
だとしたら、さらなる妄想も許されるでしょう。
すなわち、メルマガで書いた「ラスコー、古代のお化け屋敷、もしくはシアター説」です。
そしてラスコー饅頭であり、ラスコーせんべいです。
とても楽しい思考実験です。
1600円払って見に行った甲斐がありました。
質問がおもわぬ発想を生む
今回,美術教育を研究してきた中で日ごろから考えていたことを,形にすることができました。
それはメルマガにより思っていることを投げかけ,それに反応した下さったことからの一連の流れの中から生まれました。
この対話がなかったら,これらの妄想は妄想のままで頭にあるだけだったと思います。
人と話をするということはいいことです。
そして,自分の中にある「おもしろさのタネ」を顕在化させるために,対話によりよい質問を与え合うことです。
更新履歴
2017年8月11日 公開
2020年6月4日 追記
2021年5月25日 追記
コメント
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