「超一流はアクティブラーニングをやっている」という本の中に、「量満ちてこそ質が高まる」ということばがありました。
量は質を凌駕するなどということばで昔からよく言われていることばです。
毎日毎日、基礎練習を繰り返すことで、実力が身につくというように、何事も練習が大事という言い方にも使われます。
学校で繰り返し行う計算や漢字練習のドリルもそのような意味があり、意欲に関係なく、ただひたすら繰り返すことで結果が身につくものがあるということもあります。
数をこなせば質が高まる。
実に魅力的なことばです。私も昔からそのことばを信じて様々なことを行ってきました。
少し意味は異なりますが、100回の法則というものもあります。とにかく100回続けよう、100日続けよう、3ヶ月続けよう、見えないところで力は蓄積されていき、100回を越える頃から見える形で成果が出てくるから辛抱してやりなさいという意味です。
見方を変えれば、こなした回数がいつか成果という質に転換するということもできます。
これは本当に本当のことなのだろうか。ただ続けていれば質に転換されるのだろうか。
経験的にいうなら、そうだとも言えるし違うとも言えます。
この本の中にその答えがありました。
満たした量を一旦捨て去る
将来ギタリストになるのだと思って一生懸命に練習していた、多感な高校生時代。
何かの音楽雑誌で、スティービーワンダーがものすごい多産なアーティストであり、すぐにアルバムに入れられるまで作り込まれた曲が800曲くらいあるという記事を読み、舌を巻いたことがあります。
それだけのたくさんの完成された曲の中からほんの一握りの曲を選んでアルバムを作っているから、いわゆる珠玉のアルバムができるのです。
これなどは、まさに量が質に転換したものと言えるでしょう。たくさん作ったものの幾つかにすごいものが紛れている、という簡単な話ではありません。どれも完成された楽曲であるというところがミソです。それだけの完成されたものを作り続けているからこそ、良いものが生まれるのでしょう。
多産だからというだけで質に転換できるというのならば、玉石混交とあまり変わらないことになります。下手な鉄砲を数撃っているうちに幾つかの玉が当たるというわけではないのです。
では、量満ちてこそ質が高まるとはどういう意味なのか。
その転換を可能にする秘密とは、積み重ねた量を全部捨て去って、それにとらわれないで新しいことに挑戦することだ,とこの本には述べてあります。
このスティービーワンダーの例などはまさにそれであって、新アルバムの曲が12曲できたからおしまい!ではなく、それらを捨て去ってまた新しいこと,新しいことに挑戦し続けているうちに800曲できた、それが質に変化したということではないかと思います。
量をこなすだけでなく、その1つ1つがきちんと完成されているほど充実していること、そして完成したことそのものの成功にとらわれずに新しいことに挑戦し続けること。それが量から質への転換ということの秘密のようです。この本に紹介されていたチャップリンの次の言葉にも表れています。
「私の最高傑作はいつも次回作だよ。チャップリン」
完成された習作
私も、長いこと,「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」の信者で、とにかく書け、読め、練習しろと思い続けてきた1人です。
毎日絵を描いたりクロッキーをしたりして練習していますが、それはあくまで淡々と繰り返される練習に過ぎないのであり、線の練習になりさえすればいいのだと思ってきました。
ところが、その考え方を改めることが起こりました。
以前ある画家にお会いした時の事です。その方はものすごい量のクロッキーをお描きになっているのですが、とうとうその圧倒的な量のクロッキーで個展を開かれました。
もし私だったら、練習したもので個展を開くということなんて到底できないでしょう。
ところがそのクロッキーをみて愕然としたました。一つ一つの線のかたまりがものすごく素晴らしかったのです。確かに作品でした。たった30秒かそこらで描いた線が見事な迫力で迫ってくるのです。
私はそのあと、クロッキーの練習の仕方を変えました。線や形の捉え方の練習だという考え方を捨て、一つ一つのを作品にするつもりで描こうと思うようになったのです。
考えてみれば、よく昔の画家の絵の展覧会に行くと「習作」という名前のものが展示してあることがあります。完成する前の練習というような意味だと思いますが、それでも未完成ではなく、「完成された習作」であることを感じます。
基礎練習も、ひとつひとつを完成させるつもりでやる
練習はいつまでたっても練習以上のものではありません。しかし、その練習1つ1つを完成度の高いものに充実すること,ひとつひとつを完成された作品であるかのように大切にすることで,質への転換が可能になるのだと思います。基礎練習であるからといって、ただたんたんとやればいいわけではないということです。
昔ゴルフにはまっていた頃、うまい友人と一緒に打ちっ放しの練習に行きました。私は150球ほどをはやばやと打ち終えましたが、隣で練習していた友人はまだ100球も打っていません。
見ると,一球打つごとに、もう一度振りを確かめ、フォームを確認し大事に大事に打っていました。「だからうまいのだな」と思いました。
もう20年以上も前のことですけれども。そんなことも思い出しました。
教師、初任であろうとベテランであろうと、年間1000時間近くの授業1時間1時間を全力投球で完成されたものにしていく営みの中から授業技術が高まり、質の高い授業ができるのです。プロフェッショナルとしての仕事だから当たり前です。
でも、プライベートで行っている知的生産や練習についても、同じようでありたいなと思いました。
ブログの記事などはまさにそう。ひとつひとつを大事に書いてきた結果,現在2000を超える記事がこのブログにはあります。7年半の積み重ねの中には、特に初期の頃ですが、とても完成品とは思えないようなつぶやき程度の記事もあります。しかし概ね、大事に大事に書いてきました。
これからもブログの記事も、クロッキーの練習も、ゴルフの素振りも、知的鍛錬で行っている読書も、大事に大事に積み重ねていきたいなと思いました。
後日、質に転換できるように。
まとめ
量から質に転換するには
- 量をこなすだけでなく、その1つ1つがきちんと完成されているほど充実していること
- そして完成したことそのものの成功にとらわれずに新しいことに挑戦し続けること
それが量から質への転換ということの秘密のようです。
これまでにも、まず100回やるんだとか、いくら数やってもこなすんじゃだめだなど、似たような記事を何度か書いてきました。
自分では常にそれを意識して日々の積み重ねをしているつもりでしたが、今回改めて考え直していると、日々の習慣にしている勉強や読書だ、絵の練習などでいつのまにか「こなす」ことをやっているなと思いました。
「よし、今日もできた」「よし、決めたところまで読んだ」「よし、今日も一枚描いた描いた」で積み重ねているように感じていた自分がいます。
これらを「完成品」にするためにはどうしたらいいのかな。質に転換するためには何をしたらいいのかな。
更新履歴
2016-7-16 公開
2020-12-14 再公開
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