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ほりあてた知的鉱脈とつなげる読書

日刊よもやま話294

小山慶太氏の「知的熟年ライフの作り方」に次のようなことばがあります。

知的道楽は、鉱脈を一つ掘り当てると好奇心と研究意欲を持続しさえすれば次々と新しいテーマを生み出しながら自分史の中で発展、成長して行くものであるが・・・

僕の場合を思い出してみると、大学時代に幾つかの鉱脈を掘り当て、それは現在まで続いています。

それは、専門にしていた西洋中世史の研究の中でほりあてた「民衆史、大衆史」という鉱脈。私は「井戸」と呼び習わして来ましたが。

卒論は、昔話や詩、服装、らくがきなど、庶民が残したさまざまなものや事からアプローチしたものとなりましたが、そこから知的興味が民話、民俗学へとつながっていきました。

これは断続的に今まで続いていて、書棚の一角にコーナーを作っています。

古本屋で見つけた大正時代に書かれた無名の人の日記など大変面白く、ときどきめくっています。

昨日のエントリーで紹介した「百年前の私たち」も、同じコーナーに収まるかもしれません。

また、江戸の思想史に分け入ろうとした矢先、朱子学に出会い、そこから「近思録」へとつながり、これは毎晩めくって心に刻んでいます。また、二宮尊徳にも同じ経路で出会い、今わくわくしながら分け入っているところです。

これ!と響くものがあったら、そこから分け入っていくと自分の井戸がどんどん増えどんどん深くなりわくわくします。

小山氏によると、研究するだけでなく、いつかそこからあふれだすものが出てくるから著作まですすめなさい、ということですが、さすがにまだまだあふれだすところまではいきません。

毎晩、自分で掘り当てた鉱脈をどんどん掘り進めることでとても楽しく思っています。

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