「毎年1冊めは『人間失格』と決めて読んでいました。」
「夜を乗り越える」
芸人であり、芥川賞作家の又吉直樹氏は、「夜を乗り越える」の中でこう書いています
それは、自分の成長の指標とするためという意味です。
しかし、私はここで先に進めなくなりました。
この言葉には、単に成長の指標としてだけではなく、又吉氏の読書生活についての様々なことがにじみでているように感じ、それを拾い集めようとしたからです。
毎年第1冊めに読む本という読書の仕方がある。
そんな本が自分の中にある。それは自分にとって大切な本だ。
毎年、その井戸から汲みとれるものがある。毎年汲み取れるくらい豊富にある。
又吉氏にとっては、それが太宰治の「人間失格」だ。
それでは、私にとって「毎年最初に読む本」と決められる本はあるだろうか。それほど強い豊かな本は・・・。
・・・そんなことを考え出して、先に進めなくなったのでした。
🍏そもそも、「毎年最初に読む一冊を決めている」というような読み方を世間の人はしているのでしょうか。
🍏それとも、みんな当然のように毎年最初に読む一冊を持っていて、そんな読み方をしたことがないのは私だけなのでしょうか。
なんにせよ、又吉氏は並大抵の読書人ではない。
本を読む、ということ自体が血肉になっており、読んだ本はことごとくなんらかの血肉にしています。
又吉氏にとっては、面白くない本も「面白くない」という点で役に立ってしまうのです。
一体どこにこんなに本を読む時間があるのかと思っていましたら、次の言葉がありました。
「本を読む。ネタを書く。散歩する。これしかやることはありませんでした。 (P53)」
「夜を乗り越える」
谷崎潤一郎の随筆の回でも、また私のブログの記事でも、この本が私を近代文学に誘ってくれたことを紹介しました。
私の読書歴にとって、若い芸人さんの書いたこの本は大きな宝物となっています。
「僕が本を読んでいて、面白いな、この瞬間だなと思うのは、普段からなんとなく感じている細かい感覚や自分の中で曖昧模糊としていた感情を、文章で的確に表現された時です。
「夜を乗り越える」
自分の感覚の確認。
つまり共感です。
わかっていることをわかっている言葉で書かれていても、あまり共感もしません。
言葉にできないであろう複雑な感情が明確に描写された時、「うわ、これや!」と思うんです。」
又吉のこの文章を読んだ時、私の小説というものに対する目が拓けた気がしたのです。
共感を求め、曖昧模糊とした自分の感情を展翅板に蝶を貼り付けるように丁寧に固定化する。そんな読み方があるのだと。
又吉氏は,芥川賞を取るまでに、文芸家としてすでに10年近くの活発な実績がありました。
「火花」は、芸人が筆のなぐさみでちょいと書いたものがたまたま受けたものとは違うわけですね。
それだけにとどまらず、中学時代からの文学の積み上げがかなりあります。
「火花」はそれらの「巨人の肩に立って」書かれた小説なのでした。
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