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「武士の絵日記」大岡敏昭 〜無名の武士のスーパー知的生活日記

知的迷走日記保管庫

久々の大ヒットです。

 「武士の絵日記」。

 日記好きにはたまらない。

 大岡敏昭という方は,もともと江戸時代の武士の住まいの調査をされていた方です。その調査であちこち飛び回っていた先で出会った,絵日記。

 まったく歴史に名を残していない,下級武士 石城の描いた日記です。

 石城は,中級武士であったのですが,藩の政治に疑問を持ち、論じたことをとがめられ,職も扶持も取り上げられて下級武士に下げられてしまいます。

 養子先からも追い出され,下級武士の住宅街で,妹夫婦の家に居候する身となります。

 身分万能の世の中で,中級武士が下級武士に下げられてしまったら,それこそご先祖様にも顔向けできませんし,子々孫々にいたるまでその身分がついてまわります。

 ほとんど絶望状態とも思える状況にあって,石城は実にゆうゆうとしています。

 登城の仕事もほとんど取り上げられてしまったので,ぶらぶらする毎日を送らねばならず,今でさえ定年後にそのような状況になったときに鬱を発症するようなことが起こって社会問題化しているのですが,石城はまったく意に介さないように,毎日毎日することがあるのです。

 それは,中国の書籍を読み,短冊や行灯,屏風絵などを頼まれ仕事で描き,に行っては和尚と話し込み,話し込んでは散歩に出かけ,友達の中級武士や下級武士仲間の家を訪れ,そしてほとんどの出来事の先には,酒宴が待っています。

 そこには,石城が面倒を見ている貧窮した未亡人とその子供,飲み屋のおかみ,町人たちも親しく集まり,一緒に宴会を楽しむ毎日。

 幕末の動乱期にあって,地方の城下町では,身分の差を軽々と超えた,こころあたたまる交流が動乱などどこ吹く風のように繰り広げられていたのでした。

 私たちが学んだ歴史では,慶安のお触書とか,享保の改革とか,質素倹約など,身分の厳格な区別縛られた生活による江戸時代というイメージがあります。

 しかし,絵日記に示された生の生活では,うどんをみんなでおいしそうに食べ,大皿にもった刺身や煮つけをみんなで取り皿にとって分け合って楽しみながら,時には町人や女将の苦労話に耳を傾け,相談に乗り,なけなしの金で人への援助をおしまない石城らの人々の生活が浮き彫りになっています。

 この絵日記だけが特別なのではなく,きっとそのような世界があちこちで繰り広げられていたのでしょう。

 厳格な身分とか,着る服にまで規制を加えるなど,厳しい身分制度による生活は,川の流れの上層においてのみ顕現化され,深い川の底では,静かなあたたかな素の人間たちの生活が身分を超えてあったのです。

 絵日記というからには,絵が描いてあるのですが,これがまたどれをとっても見事。絵を副収入にしている石城ですから絵は達者なのですが,それにしても北斎漫画にみられるような躍動感あふれる筆致であらわされた人物たちがひしめいています。

 ものすごい画力です。

 そして思いました。

 この石城や,ほとんど毎日訪れる寺の和尚たち,そして石城の仲間たち。

 彼らはゆうゆうとした知的生活を送っていたのです。

 ふらっと寺を訪れては,和尚たちと中国の史書について語り合う。本を買う金に窮するので,写して読む浄瑠璃をうなりちらす

 かと思えば,和尚と一緒に朝餉をつくる手伝いをして,書について語りあいながら朝餉をいっしょに食べる。そしてまた友人宅を訪ね,そこで書を貸し借りしたり論じたり,そして酒を飲んだりする。

 中級武士が下級武士に落とされるというのは,課長が係長に降格されるというようなものとは質が違います。子々孫々にまで至る大事変なわけです。

 そんな状態にありながら,日々仲間たちと楽しく飲み,歌い,描き,語り,読む,書く。

 なんと優雅な知的生活ではありませんか。

 社会の動乱も時々は絵日記に現れます。

 義理の弟が,皇女和宮の下向にあたってその警護の務めにでるから酒宴をしたとか,坂下門外の変で安藤信正が攻撃された際の,攻撃された側攻撃した側の双方の書きつけの写しがすぐに出回り,それを論ずるとか。

 しかし,そんな動乱も,いつしか石城たちの質素だけれども豊かな知的生活に飲み込まれてしまいます。

 そんな石城も,維新後,その碩学が認められたのでしょう。藩校の教頭として迎えられることになります。

 石城は,明治の7,8年ごろ,病を得て任地で病没します。

 この間に,石城たち下級武士の豊かな生活について書かれた「石城日記・全7巻」は,慶應義塾大学文学部古文書室にひっそりと収められていました。


 歴史上に全く名を残さず,ゆうゆうと知的生活を送って旅立った石城やその友達のお話でした。

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