今日は「絵とは何か」
おそらくだれも読んだことがないんじゃないかと思います。
絵の評論家の書く本など,読んでもむずかしくてわからないに決まってる。それよりも,絵を見ていたほうがまだましだ。
坂崎乙郎は,西洋美術史研究家であり,美術評論家です。
30冊近くの著書のタイトル,どれをみても簡単に読めそうもありません。
幻想の建築
反体制の芸術 限界状況と制作のあいだで
幻想芸術の世界—シュールレアリスムを中心に
鏡の前の幻想
空間の生命 人間と建築
なかなかてごわそうです。
そして,「絵とは何か」です。
言葉は簡単ですが,答えはそんなに簡単にでてきはしません。相当手ごわい書物であることが予想されます。
私はこの本を30年くらい前に一度開きました。
開いただけで何が何やらわからず閉じてしまいました。
30年たって再び開いたこの本は,さすがに私を気持ちよく迎えてくれました。それほど私も経験を積み重ねたのでしょう。
「絵とは何か」という題名は,著者が三島由紀夫の「小説とは何か」を読んで感銘し,目からうろこが落ちるような斬新な印象を受けて思いついたものだといいます。
三島由紀夫の本で目からうろこが落ちた斬新な印象を,絵とは何かと読者に問うて同じような経験をしてもらおう。そのような意図のようです。
著者は絵とは何かの結論を,なんと「はじめに」の中でかたってしまいます。
いわく「絵とは感覚である」
うーん。確かにそういわれたらそうです。
それぞれの感覚で見るわけだし,それぞれの感覚で描くわけです。
なんだか,当たり前のことを言われているようです。
しかし,だからこそ,ちょっと困ります。
感覚だといわれると,つかみどころがなく,結局私にはそんな感覚わからんと思ってそれで投げ出してしまいそうです。
・・で,読んでみると,なるほど,そうきたか。
絵自体は,物質です。
キャンバスという物質に,絵の具という物質を重ねてできた物質にすぎません。
しかし,その物質+アルファにより,絵は「絵」となる。
たとえば,小林秀雄の例がでてきます。
小林秀雄は,著書「ゴッホへの手紙」のなかで,上野の美術館でゴッホの「烏のむれ飛ぶ麦畑」を見てたいへんな衝撃を受け,座りこんでしまったと書いています。
見たのは複製です。
偽物の単なる物質にすぎません。
しかし,小林秀雄は座り込んでしまうほどの衝撃を受けた。後日,アムステルダムの美術館でオリジナルを見るわけですが,それよりも複製の感動のほうが大きかったと言っているそうです。
これはいったいどういうことでしょうか。
複製という偽物が人の心をつかんでしまう。
そこには,絵が持つ属人性とでもいいましょうか。それがあります。
絵自体が,オリジナルかコピーかにかかわらず,描いた人そのものが醸し出される何か。
物質を超えるプラスアルファです。
それは何でしょうか。
それは,ゴッホという絵描きが生涯をかけて打ち込んだ一枚の絵というプラスアルファです。
「烏のむれ飛ぶ麦畑」からしぼりだされた人間の生き方。
小林秀雄は,そこに立ち向かうことになった。
つまり,受け取る側の感受性と,作家の生き方からしぼりだされた一枚の絵が,お互いに響き合って単に物質にすぎないキャンバスに塗られた絵の具を「絵」にするのです。
それが「絵は感覚である」ということでしょうか。
評論家としての坂崎乙郎は,70年代に活躍した人ですが,日本の画壇をずたずたに評します。
1号いくらで権威付けられたピラミッド型の日本の画壇では,ゴッホのような生き方はできないから,ゴッホのような絵は生まれない。
著者は人付き合いが良くては絵が描けないといいます。毎日人と付き合っていたら自分の想像力なんて展開できないからです。
しかし,画壇に認められ安泰な画家生活を送るには,人付き合いをせねばならず,そこからは,ゴッホのような閉じこもって想像力を働かせ続ける画家はうまれようがないというのです。
僕は評論家ではないからその辺はわかりませんが,1号いくらで価値づけられる日本の画家たちの世界は,感覚と想像力を精一杯働かせて人生をこめた画家たちに比べて少しどうだろうかと思うのです。
その画壇を真っ向から批判してきた坂崎乙郎も,1985年に,盟友の画家の死を追うように自死したそうです。
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