和歌という形式が日本にあったことの幸運
日常のちょっとした心の動きを言葉にするための形式、手段が中国にせよ日本にせよ古代からあったということが、古代から質の高い文化を生み続けることができた所以であろうと思う。
例えば、新古今和歌集に見える慈覚大師の歌。
おほかたに 過ぐる月日を眺めしは わが身に年の 積もるなりけり
毎年年の暮れになるとなんとなくしみじみとして過ぎ行く日が名残惜しいなぁと思っていたが、その嘆きの繰り返しが自分の命が老いていくことなのだと気づいた驚きを表している。
確かにそんなこと、ふと思うことがある。よくある。
あるかもしれないが、ふと頭によぎったことにいくら感興を感じても,いちいちメモなどしてはいられない。
和歌という心の感興を言葉で表す形式があったからこそ、そのまま忘れてしまいそうな儚い心の驚きを形にして残すことができたのだ。
そして,1000年の時を経て,現代の私にその感興が届く。
すばらしいことだ。
長らへば またこのごろや しのばれん 憂しと見し世ぞ いまは恋しき
藤原清輔
長く生きていると、辛いと思っている今をまた恋しいと思う時が来るのだろうか。
まさに、今の私の心情にぴったり。つらいなあ,と思う毎日だが,後から振り返ってみたら,そんな今もきっといい思い出になっていることだろうな,早くその時がきたらいいな,とよく思うのだ。
鎌倉初期の頃、1000年近く前の人も同じ心を持っていたのだと感慨深い。
このような心のちょっとした動きを止めておけたのは、和歌という形式があったればこそ。
古代の人も,中世の人も,そして現代に生きる私も。殿上人も名もなき人も。みな同じだと思う。
和歌の前の平等という言葉が渡部昇一氏の著作の中にあるが,まさにこのことだと思ったそんな日。
お片付けノート
10数年前からある使わないコード類を捨てた。
一日一新
ローソンで、極上肉まんを買った。すごくうまかった。
ラクガキ
Pinterestで見つけたKidsの写真から。
Pinterestの写真は,以前はEmbedコードで貼り付けられたのだけど,今はできない。コード自体がWordpressでは消えてしまう。
どうしたらいいの?
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