山本七平の「人望の研究」をお送りします。
人望などというとドキッとします。私には人望があるのだろうか。
どうもそうではないなとも思う時もあるし、人様から「あなたの人徳のおかげですよ」なんて言わるときもあります。
そもそも、人徳と人望の違いすらわかりません。
昭和初めの若者たちが必読書としていた「近思録」という本があります。
戦後、それまでの文化はみんな悪いという風潮の中から、忘れ去られてしまいましたが、朱子が体系化した儒教の庶民版、概要版とでもいうべき本です。
昔の人たちは、これを読んで、徳に至る道を学んでいたわけです。
自分に人望がないと思ったときはこの本を見て、自分に何が足りないから人望がないのか、どのようにすれば人望が得られるようになるのか、そのような指針ともなりうべき本だったのですね。
確かに、2010年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の中で、武市半平太が、岩崎弥太郎に「俺のところに来い。近思録も教えちゃるきに」というセリフがあり、「確かに当時の人にとっては当然の教養だったのだな」と思ったことを覚えています。
私はこの本を、メルマガでご紹介した「欲しがらない生き方」と同じく8年ほど前(注:執筆時点。2009年)に読んだのですが、その時に初めて「近思録」の存在を知りました。そして、「僕も人徳がほしいなー、人望がほしいなー」と思ってすぐに買い求めて読み始めたのでした。
その後、ちゃんと朱子学を学ぼうと思いました。
[st-kaiwa2]また何か始めた[/st-kaiwa2]
この間のことは、ブログにも書いてます。私のブログで「近思録」を検索すれば2009年ごろからの記事がいくつか出てきます。
朱子学をライフワークにしたいとか、寝床で毎晩読んでるとか。
2013年ごろまで読み続けていました。
その後忙しさの中で埋もれてしまいましたが当時は、朱子学をライフワークにしようとまで思っていたことがわかります。「徳」を身につけたかったのでしょうね。
「徳」とか「人望」というものを説明しだしたら大変なことになってしまうのですが、「人望の研究」をもとに、簡単に言うと、
「人徳は、近思録などをもとに学び、自ら学んで身につけることができる。私がやるかやらないかであり私がコントロールできる。
人望は、人徳を身に着けたその結果、もしくは身に着けようと努力している姿を見て、私の行動や行いを人が好ましく思ってついていこうとする望みである。人から得るもので私がコントロールできるものではない。」
という理解ができます。
「人徳は私が身に着ける。人望は人様が下さる」
簡単に言えばそういうところでしょう。
では、どのようにしたら?ということになるのですが、ここではそれを述べる紙幅がありません。
でも極度に単純化していうと、近思録にある「九徳」を身につけなさい、その方向で間違いないから・・ということになります。
九徳とは・・・
「寛大だがしまりがある。」
「柔和だが、ことが処理できる」
「まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない」
「ことを収める能力があるが、慎み深い」
「おとなしいが、内が強い」
「正直・率直だが、温和」
「大まかだが、しっかりしている」
「剛健だが、内もう充実している」
「豪勇だが、義(ただ)しい」
このような人間になろうと学んでいくことが「徳」に近づくことであり、実はさらに先にすることがあるのですが、ボーリングのレーンにマークがあるじゃないですか、そこを通過させればストライクが取れるよ、という目安のマーク。「徳」がストライクだとすると、九徳はあのマークのようなものだと考えていいわけです。
人間は、欲をそのまま垂れ流していれば、上の九徳の中のどちらかがだめな「九不徳」に、それどころか、どちらもだめな「十八不徳」になってしまう可能性があります。
「こうるさくてしまりがない」
「とげとげしくて事務処理がへた」
「不真面目で、尊大で、つっけんどん」
「ことを納められないくせに態度だけは居丈高。
「粗暴なくせにいざとなると気が弱い」
「率直にものを言わないくせに、内心は冷酷」
「何もかも干渉するくせに、全体をつかんでいない」
「弱弱しく見える上に、中身もからっぽ」
「気が小さいくせに、こそこそ悪事をはたらく」
こんな上司や先輩にだけはならないでおこうと、私は近思録を読み始めたのです。
いい機会なので、また読み始めました。
「人望の研究」はこれ1冊で私の学びの幅をぐっと広げてくれた本となりました。まさか、自分が朱子学を勉強するようになるとは・・・
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