メルマガ「知的迷走通信」に連載した,「Lyustyleの読書」で発表したものに加筆したものです。
今回は、「弓と禅」
1900年代初頭、ドイツ人のオイゲン・ヘリゲルが日本に赴任した際,スポーツとしてではなく禅としての弓道に分け入ります。
「術」としての弓の稽古から始めて,無心で矢を射る「射」ができるまで、数年の稽古が必要でした。
弓を引き絞ってのちの「射」は、無心で行われるものだということを初めて知りました。
的をねらってはならない。
的に当てることも考えてはならない。
的が私の方に来て私と一つになる。的を狙うのではなく、自己自身をねらう。
それが「精神的に射る」ということ。
日本人は術を道にする、という記述をどこかで読んだことがあります。
私たちは,「うまくなる」ための技術の向上を通り越して、その先にある「無心」というところまで進めようとする。
そこにあるのが「道」です。
剣術は、相手を倒すための技術ですが、その先に無心となって自らを剣と一体化させ、自分自身を打つ。
書も、うまくなることの先に無心となって自己の収容を目指す。
どちらも「道」を極めます。
弓術は、的に矢を当てる技術ですが、その先には
「的に当てようと思ってはならない。的を射ようとおもってはならない。無心になることで的が婿からこちらにやってきて的と私が一つになる。矢を射るということは自分自身をねらい当てるということ。それが精神的に「射る」ということ」
という境地に行き着きます。
やはり「道」です。
このような、術の向こうにある「道」を極めようとするのが禅であり、日本人は「〜道」ということを幼少の頃から嗜むことで、禅の心を通して仏教に接しているのだオイゲン・ヘリゲルはいいます。
「無心」とは、言葉で説明できるものではないですが、実際に6年間の弓の修行で無心にたどり着いた著者。帰国後はドイツでそれを言葉で伝えようとして講演をしました。
この本はそれを基にしてかかれました。
1920年代の日本での経験を基にしたものであり、すでに当時の日本人とは心のありようは異なっていますが、術の向こうにある道を極めようとする精神的態度については、まだ受け継がれている面があろうかと思います。
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