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20歳の自分に伝えたい知的生活のすゝめ 齋藤孝

読書部

20歳の自分に伝えたい知的生活のすゝめ を再読し始めた。2022年に一度呼んだ本だが改めて読み始めようと思った。

齋藤孝先生の「知的生活」というものがどのようなものか、改めて知りたかったからだ。

以下は、この本のアマゾン販売ページからの引用だ。

「知的生活」とは、黙々と読書し続けるようなクールなイメージとは違うと言います。もっと能動的で、日々ワクワクドキドキして過ごすような、自らのクリエイティビティが発揮できるような、ホットな生活です。

・生まれ持った遺伝子や環境を恨むのではなく、成長の喜びで満たされる生活
・得た知識が次の知識を呼び込み、好奇心の高まりが加速されていくような生活
・不遇な時期も、孤独な時間も、将来に飛躍する糧となる生活

目次

はじめに
序章 本当の「知性」とは何か
第一章 生まれ持った「遺伝子」より、身につけた「教養」を重んじる
第二章 「向上心」があれば、逆境も力に変えられる
第三章 何にも侵されない「精神の王国」をつくる
第四章 人との縁によって、「人格」が磨かれる
第五章 インプットを血肉化し、アウトプットを使命にする
おわりに

販売ページより

本文中には、次のようにある。

自分にとって新しい刺激になりそうなものを、なんでも貪欲に取り入れてみようとする能動的な生のあり方こそが、ほんとうの意味での知的生活だと思うのですい

  

私にとっての知的生活の師、私淑している渡部昇一氏は知的生活を「内省的な生活」と」言いますが、さすがにエネルギッシュな齋藤孝氏らしい定義だと思う。

 

この本を読みながら、つらつらと考えたことを書いていきたい。

 

無垢」ならアイデアが湧くわけではありません。子ども時代の私は、「無垢」な状態で将棋を何百回も指しましたが、ロクな手を思いつきませんでした。知識がなければ、創造性も出てこないのです。

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知識がなければ,創造性も出てこない。

これは両手をあげて賛同します。

珠玉の言葉があっても,それが過去の偉大な古典を中の一節であったり,それを連想させたりするものであることを知っているからこそ、珠玉たり得る,というこもはたくさんあります。

以前,ヒルティの「幸福論」を読んだ時,例えとしてあげている文章の意味がよくわかりませんでした。

その後,その文章が,2000年前のプラトンの著書に根ざしていたりするからだということに気づき,プラトンを一生懸命に読んだことを覚えています、

プラトンの知識は,ヒルティの時代の教養者には当然の理解だったのでしょう。

その知識がない僕には,ヒルティの文章がわからなかったのです。子供が古典とか名作などを読んでもあまり面白いと思わないのはそういうことです。

年を重ねてから読む,いわゆる古典から🫴ものは,若い頃のそれと比べて格段の違いがあります。

味わい深いんです。

 

最初は「笑えるもの」としてでもいいので、とにかく若い人には世界文学を読んでみてほしいと思っています。

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世界文学というだけで大きな壁が立ち塞がっているかのように感じ,開く前から読むことを逃げてしまっている本が数多くあります。

しかし,実際読んでみると,あれ?こんなに親しみやすい本なの?と思うことがあります。

ぼくはカラマーゾフの兄弟を読んだ時、長老の長台詞を読んだあと「これはライフハック本だ」と感じました。

そして俄然よゆの顔もしぽくなったことを覚えています。

まだ、「徒然草」は、「これ、鎌倉時代のブログだろ」と感じました。著者の吉田兼好は、現代に生きていたら絶対に有名ブロガーになっていたでしょう。

長い時間が経っているから古典と言われているのであって,発表当時は、今は消えていった多くの本と同じスタートラインに立っていたんです。

きっと,親しみやすい,次を待ち望まれた物語だったに違いありません。

 

現代人は整っているけど薄っぺらく感じるとのこと。その理由として、

なぜ外部の目にさらされたとき、薄っぺらく感じさせるのかといえば、それは現代人の内面世界が、その人自身の「気質」だけで構成されていて、その気質を下支えする土台や、柱・梁にあたるものがないからだと私は思います。

これはすごく感じますね。

自分自身がそうです。何かを見たり聞いたりした時,それを歴史的な事件とか文学や古典の中の一句、などと結びつけて語ることが難しいからです。

それに足るインプットができてきてないからでしょう。

 

そして,その下支えとなる柱が,身体的知性というわけですね。

文化で考えてみましょう。武士というのは、自分たちの人格修養に関して、有利な立場にありました。なぜかといえば、彼らは宮本武蔵ほどの水準ではなくても、剣術や弓、馬術の日常的な訓練を通じて、身体的な知性を自分の中に取り入れることができたからです。

振る舞いや所作を幼い頃から徹底的に仕込まれる中で,いつのまにか知性を高めるための日常的な訓練になっている。

なるほど,と思うのですが,ここで思い起こされるのが20年ほど前一世を風靡した「江戸しぐさ」。

偽書的な扱いになり,いつのまにか消えてしまいましたが、あれは町人としての身体的知性を身につけるための日常的訓練になっていたと考えることができますね。

 

以下追記

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