目次
知的生産に関する「子ども」の視点
学校関係者がぜひ,読んでおきたい記事。
最初の食育の話からグイグイ引き込まれる。知的生産の話のはずだが、いつの間にやらそう言うことを忘れて読んでしまった。
「まず、自分の意見を責任者に伝え交渉しようと言うルール」
ルールかどうかはわからないが、欧米系の子どもたちは普通に身に着けている能力だと思われる。
そう思うのは,オーストラリアというイギリス系文化の国に日本人学校の教師として派遣されていた筆者の経験からだ。その学校には,各学年に一クラスずつ,現地校のクラスがあった。1,2組が日本人クラスで3組がオーストラリア人によるオーストラリアの教育が行われるオーストラリア人クラスなのだ。だから現地の子どもたちがたくさん学校の中で一緒に勉強している。
実に落ち着いた表情で、子どもに話しかけるようにゆっくりと、かんでふくめるように思いを伝えに来たオーストラリア人の1年生女の子の目。今でも忘れない。はじめは,私はこの子から下に見られているのではないかと感じたほどだ。
どの年齢の子供であっても、相手がだれであろうが、相手の目を見て、一言一言、大事に相手にわからせようとして話をし始める。
いつもはやんちゃで私を困らせてくれる現地の子供達が、居住まいを正して「SENSEI. May I tell you・・・?」と話に来るのだ。本当に居住まいを正すという表現がぴったりくる。
これには参った。そして時にはコロリと騙されてしまう。
子どもたちには何とか自ら見つけた課題を解決するための力を身につけてほしい。
これは子どもに身につけさせたい「知的生産の技術」のひとつと言える。
知的生産とは,
「頭をはたらかせて,なにかあたらしいことがら_情報_を,ひとにわかるかたちで提出すること」
なのだから。
知的生産の技術の視点は,学校教育には反映されていないのか
ところが、その力について、日本人の大人の多くが仕事術関係の本をエキナカの本屋で探し求める状況を鑑みて次のようにいわれる。
「日本の学校が真の社会人として僕たちが身につけておくべき技術を教えていないことの裏返し」
これには異論があるので丁寧に説明したい。
「ロングセラー新書のメッセージが学校教育にほとんど反映されていない」
反映されていないのだろうか。
相手によくわかる話し方、討論の仕方、メモをいかに取りながら話を聞くか、マップを作っての作文法などの技術は教科書にある。
こざね法による作文の仕方も「こざね法」とは書かれていないが,国語の教科書を使って教えた。
数人でのグループでの話し合いの時に付箋を使ってそれぞれが考えを持ち寄り、ボードに貼りながら「シェイク」したり,レベルを上下したりしてまとめていく方法などは普通に話し合いの技法として教えられ,用いられている。
ちゃんと内容にあるのだ。
学校ではこのような技術は教えられているのだ。
いかに相槌を打てばさらなる内容を聞き手から引き出せるのかという事まで教える。
教科書に載っていない裏カリキュラムも各教師の中にはある。
私の場合は、学習指導要領にも学校の教育計画にも書かれていないマインドマップを使った発想や構想の技術を教えてきた。
<学習のまとめをマインドマップで行い,交流する>
私だけではない、世の中の多くの教師は、裏のカリキュラムで何らかの技術を教えているのである。
カリキュラムにしても裏のカリキュラムにしても、教師たちは一生懸命に仕事術として将来役に立つであろう技術を教えて来た。
目の前の子ども達が20年後に困らないようにと願う一心で。
それが梅棹忠夫の知的生産の方法に書かれていたことを反映させようと思ってのことかどうかは知らない。
でも、「自分の頭で考え、他人にわかる形で提出する」技術は確実に教えられて来た。
しかし,子どもたちはいつの間にかそんなことを学んだことなど忘れてしまう。
小学校時代に確実に教えたことについて「何にも覚えていません。あはは」と同窓会で言われるのにも慣れた。あんなに目を輝かせて「面白い!私国語が大好きになった!」と叫んでいた子どもが,数年後にはきれいさっぱり忘れている。
夜中までかかって一生懸命に研究して授業しても簡単に忘れてくれる。
逆に、裏のカリキュラムで教えたマインドマップが社会人になった今とても役立っています、と手紙をくださる方もいるが・・・・。
教えていても子どもたちはそれを忘れてしまう。
それが自然だといえるだろう。
教え方が悪いから?それは真摯に反省する。
しかし夜中までかかって準備をした授業で「あはは,忘れました」と言われるのである。これはもう,指導の在り方というよりは自然忘却に類するものといってもいいのではないか。
それでも、いつの日にか大人になり、それらの技術が本当に必要な日が来た時、自らそれらの情報を求めに行く力は様々な場でつけているのだと言う自信は持っている。エキナカの自己啓発書を探すように。
学校教育において「知的生産の技術」は反映されて来たのだ。
なぜ,学校で「真の社会人として僕たちが身につけておくべき技術」が教えられていないと思われるほど,子どもたちに身につかないのだろうか
これまで述べたように,必要なことは学校で教えられている。それなのに,なぜ忘れてしまったり身についていなかったりするのだろうか。
それは,学校で教えたことが、家庭や地域社会での生活で継続される仕組みなり機会なりがないからではないだろうか。
(文科省 中教審が8月にまとめた審議のまとめの中で出てくる「開かれた教育課程」というのはまさにそのことを言っている。)
家庭で、子どもが親にゆっくりとかんで含めるように意見を言う機会がたくさんあるのならば、子どもはそんな力を身につける。学校では毎時間のように人にわかる話し方をその場その場で教えているのであるから。
地域社会でも同じだ。
「日本の学校は、社会を変えるための小さな技術をみんなが気軽に実践できるほどには教えてくれていないと、僕は感じています」
Go Fujitaさんは,どこかでそのように感じられたのだろう。残念だ。そして,そのようにGo さんが感じるような教育がある時期に行われたということは,教育の中の世界にいるものとして真摯に向かい合いたい事実だ。
しかし、これまで述べたように「小さな技術」を教えるのが学校である。
Goさんが言われる「気軽に実践できるほどに」、ということの「気軽」の程度は、おそらく,社会の中で何か課題を見つけたら,自分なりにすぐにアクションを起こせる程度というように理解したい。心の中に壁がない状態だ。私に噛んで含めるような意見をしに来たオーストラリアの1年生の子どものように。
その上で申し上げたいのだが,身に着けた技術を気軽に実践できるほどに高めていくのは、残念ながら学校だけではできない。
学校では「小さな技術」というタネを確かにまく。しかしそれを現実の場で実際に使って発揮させ、気軽に実践できる実を実らせるのは学校だけではできないのだ。
総合的な学習の時間の限界
学校では総合的な学習の時間に,各教科で身に着けた「小さな技術」,すなわち社会を変え得る「話し方」「聞き方」「読み方」「書き方」「計算の仕方」「その他表現する力」などの「技術を発揮すること」が求められているが、所詮学校の枠組みの中でのことだ。限りがある。
ある年の総合的な学習でこんな学習に取り組んだ。
校区に流れる川の生態を調べて、課題を見つけ、何とかしようというのだ。
子どもたちは調べたことを元に、一生懸命に何とかしなくてはと考えた。その結果、区役所にお願いしに行こうというアイデアが出た。それでは、と区役所に電話をかけさせてアポを取り、みんなでお願いに行く。自作の川の課題を訴えるパンフレットを持って。
そのために,
相手に伝わるレイアウトや色使いを教える。
相手に伝わる文の書き方を教える。
アポを取るための電話のかけ方を教える。
区役所の方にお会いした時の、伝わる話し方を教え練習する。
そして当日、これらの小さな技術を発揮しに区役所に赴くのだ。
その時のパンフレットは後日区役所に置かれ、地域の方々の目にも止まった。
また、話を聞かれた図書館からもパンフレットを置かせてほしいという依頼があった。
子どもたちはよくやったと思う。様々な「小さな技術」が教えられ、それらが総合的な学習の場で発揮された。能力として身につくための階段を一歩上がったのだ。
でも、残念ながらそこ止まりだ。
実際に課題が解決されたわけではない。社会にある課題をもとに社会に相手をしていただいて,学習する機会をもらっただけだ。そんなやり方もあるのだよ,と。
そこから先、本当に課題を解決して行くことができるのは地域、社会での活動に参加してのことなのだ。
だから、学校、家庭、地域力を合わせて「共育」してほしいというメッセージを文科省は出し続けている。
「共育」による,子どもの知的生産の能力の育成への期待
「気軽に実践できるほどには教えてくれていないと、僕は感じています」
ありがたい。そのように考えていただけるならこんなに嬉しいことはない。
ぜひ学校に力を・・・・。
学校では一生懸命に小さな技術を教える。
それらを発揮できる場を家庭や地域の一員として担っていただければ,子どもに一生懸命に将来役立つであろうさまざまな技術を表で裏で教え続けている教師たちにとって,こんなにありがたいことはない。
実は、それらは地域の自治協だより、公民館だよりなどで提供されたり、呼びかけたりされている。目を通していただくと,学校を含めた地域が一体となって子どもの「小さな技術」の発揮しどころを作ろうとしてくれている情報が満載であるので,そこでかかわっていただくことができる。
そういう場所で発揮される力、それが子どもたちの、知的生産の技術なのだ。そしてそこでの発揮の積み重ねによって,タネは枯れて「忘れられて」しまうのではなく,大人になるまで継続されて,社会を変えるための小さな技術」として身についていく。タネであった時のことは忘れてしまうかもしれないが,実として実った自分を顧みたとき,タネとしてまいてくれた私たちのことを思い出してくれることもあろう。
そのためのタネを一生懸命にまこう。私はそう信じて教育の道をひたすら進んで来た。
「そしてそのために僕ができることは何かを問いながら、実践し続けたいと思います。」
嬉しい。ありがたい。学校で教えた子どもたちの知的生産の技術を、ぜひ家庭、地域で発揮させながら伸ばしてあげてほしい。
ボランティアとして登録し,学校そのものに出かけて行って直接指導にかかわっていただくことだって可能なのだ。そのような募集は学校のHPや学校だよりなどで行われていることが多い。
学校、地域、社会で協働しながら次世代を担う子どもたちの知的生産のための技術を教え伸ばして行くという、たいへん広大な、学校関係者としてはたいへん嬉しい論であった。
おわりに
途中,教育の中にある者としてどうしても異論をあげねばならない箇所があった。「イイワケ」をさせていただきたかったのだ。
「学校は◯◯をしていない」という言葉は,一般の方にとってはとても気持ちよく響くようだ。
「日本の学校が真の社会人として僕たちが身につけておくべき技術を教えていないことの裏返し」という魅力的な文は,読んだ方皆さんがおそらく「そうだ!」と喝采したくなるだろう。
「日本の学校は、社会を変えるための小さな技術をみんなが気軽に実践できるほどには教えてくれていないと、僕は感じています」と言われると,読んだ方は「そうだ!そうだ!私もそう思う!」と思われるであろう。
GO Fujitaさんがそのように感じられたことについては,関係者として真摯に向き合わなければならない。反省点,改善点はたくさんあるだろう。
そのうえで,読んだ方がすーっと同じような感情になっていくことについては,現場で必死に生の子どもに向かい合っている姿を知るものとしてはまことに忍びない。
教師というのは,「言い返せない」仕事だ。いろいろと言われてもだまっていることが多い。言い訳ととられることが多いからだ。だから何を言われても,ただ一生懸命に励むだけだ。
だからこそ,中を知るものとしての異論を書かせていただいた。実際はこうなんですよ,と一言,言い訳させていただいた次第だ。
内容は,知的生産の視点を子どもに身に着けるべき力という視点を示していただいたすばらしいものであった。
私は,GO Fujitaさんのこの記事でさらに頭が整理された。そして自信をもって私の道を歩んでいく。
感謝。
コメント
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[…] 知的生活日記 「かーそる」読書日記⑦より […]
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