太宰治の全部入りを読み進めています。

「太宰治全集・280作品→1冊」というKindle本です。もう随分読み進めましたが、なんとまだ全体の6%にしかなっていません。でもおもしろくておもしろくて、バスの中やバス停での待ち時間、風呂など、スキマ時間を見つけては読み続けています。あとどれだけかかるかわかりません。

文学がわからない

子どもの頃から小説や物語はあまり好きではありませんでした。ドキュメンタリーのようなノンフィクションが好きだったのです。

子ども用におもしろく書かれた伝記ものなどは、物語の筋がはっきりしていておもしろく,よく読みました。プルタークの英雄伝など、小学校4年生くらいで読んで,大人になるまで何度も読み返した愛読書となりました。

「文学全集」みたいなのはきらいでしたが,ノンフィクションもの,歴史や考古学,宇宙などの本はよく読みました。

しかしいわゆる文学はおもしろくありません。筋がおもしろくなければおもしろくないのです。

文学と言う奴はおもしろくないものの代名詞のようでした。読んでないわけではありません。大学生の頃は一度は読んでおかなきゃならないだろうと思いちょこちょことつまみ食いのように読んでみたことはあります。ヘルマンヘッセとか五木寛之とかなんだか手当たり次第に作家を決めて,出ている文庫は全部買って読みました。

志賀直哉や三島由紀夫なども、なぜか大学の時に引っかかって,出ている文庫本のものは全部買い求めて読んだのですが、それも自分との約束として何とか読み上げただけで、実は何がおもしろいのか全くわからないままで私は社会人になりました。

筋が全くおもしろくない。または何が何だかわからない。作者は一体なんでこんな小説を,物語を書こうという気になったのかさっぱりわからない。そして世の中の人がなんでそうもてはやすのかもわからない。私にとって文学とはそのようなものでした。

私はその物語やお話の中に入っていけない人間だったのです。

高校入試等に出てくる作家のものなどは、勉強のために教養のために読んでおく本と言うとらえ方が強く、好き好んで読むようなものではないと言う感覚が自分の中に強くありました。

その中でも夏目漱石の「吾輩は猫である」は例外中の例外で、子どもの頃に読んだ時はさっぱりおもしろくなかったのが、高校の入試か何かの問題集の中に出てきた一部を読んでみるとちょっとおもしろい感じがしたので読み返してみました。それでもまださほどおもしろくなかったのでしょう。それで終わりましたが,縁あって社会人になって読み,そして40代の頃に読んでほんとにおもしろいと思いました。

その時、文学と言うものは読むのに適した年齢があるのだということをつくづく味わいました。

そのことがようやくわかったのなら、もう一度芥川龍之介や太宰治などを読んでみようと言う気持ちができればよかったのでしょうが、全くそんな思いはありませんでした。夏目漱石自体,猫以外に読もうなんて言う気持ちが全く起きなかったのです。

そういうことの積み重ねの結果、「私には近代文学や現代文学のおもしろさはわからないのだ、年齢を経てもわからないのだ、そんな人間なのだ。なぜならお話の中に入っていけないからだ」と思ってきました。そうしていつしか,「私は文学を読んでもわからない,文学を読んではいけない人間」と自分で勝手に決めてしまっていました。

これが私が近代文学や現代文学を敬遠してきた大きな原因です。

教師になってから久しいです。読書は大好きですから子どもたちにも読書が好きになってもらいたくて,読み聞かせや語り聞かせなどたくさんしてきました。

私自身もその間,多くの本を求めて読んできました。しかしその中に文学はあまり入っていません。自分の蔵書カテゴリーは,以前の記事で書いたことがありますが,「民俗学、民話,西洋中世史,美術史,明治・大正・昭和の詩人の詩集や伝記,さまざまな次代の人々の自伝や伝記,心理学,江戸の文化史,科学史,グラフィックデザイン」などです。文学は入っていません。

私の本棚に文学全集はないのです。

そんな私が、なぜ今,太宰治を読んでいるのでしょうか。

文学をよみたくなったわけ

それは、又吉直樹の「夜を乗り越える」を読んだからです。


ようやく目が見開かれた気がしました。そして,私も文学を読んでいいのだという気がしました。

それは、又吉は文学を共感するものとして読んでいたということを知ったためです。又吉は、「自分が悩んでる事は誰かがどこかで書いている。登場人物たちの行動や思いに共感することによってそれが自分の中で少しずつ解決していく。」という、そのような読み方を中学生の頃からしていたのです。

教養のために読んでおこうとか筋がおもしろいから読もうとかそのようなこともあったかもしれませんが、そのこと以上に今の自分と同じ思いや悩みを登場人物たちが感じそれを解決していくところに共感し、むさぼり読んでいたということでした。

「僕が本を読んでいて,おもしろいなあ,この瞬間だなあと思うのは,普段から何となく感じている細かい感覚や自分の中で曖昧模糊としていた感情を,文章で的確に表現された時です。自分の感覚の確認,つまり共感です。P114」

これは,「第3章なぜ本を読むのか」という冒頭に書いてあることです。又吉はそういう感覚を味わいたくて本を読んでいるのです。

でも,私はそんな読み方をしたことがありません。いや,登場人物の行動や思いに共感はしますよ。「たしかにな~」とか「あるなあ」などと思うことはあります。

でも,それを共感しようなどと思って読んでるわけではありません。単にお話の筋を求めて読んでいるだけです。だから共感することはあっても,それは自分に響くところまでいかず,筋の中にすぐに埋没していきました。

しかし,又吉は共感することがおもしろくて読んでいる。もしそのような読み方ができたら、きっと文学は私にとってとても生きたものとなり心の中に沈殿していくことになるだろう。そう感じました。

私は又吉みたいに、「共感する読み方」をしてみたいと思いました。

そして同時に、そうであれば私も文学を読んでいいのだ、と、何かに許されたような気がしました。

書き手のほうから考えると、筋の面白さだけを追い求めて読んでもらっては書きたいことのどれだけも伝えられないと思っているのかもしれない。そういう意味では、私は文学を遠ざけていただけでなく、文学の方からも私を遠ざけていたのかもしれません。

文学を読んでいいのだと何かに許されたような気がしたと書きましたが、その何かとはまさに文学そのものだったのかもしれません。

いやいや,文学は私を遠ざけてなどいやしません。ずっと手を差し伸べてくれていたのです。私がその手を握ることができなかっただけに違いありません。

ライブラリーに近代・現代文学を加えます

私は、又吉が愛読していたという太宰治と芥川龍之介をとにかく全部読んでみたいと思い、Kindleで冒頭の本を買いました。

そしてさまざまな時間を利用してチリツモ読書により、太宰治を読み始めました。

そして,登場人物やその背景をそのまま受け止めようとしました。

すると,お話の中に没入している自分を見つけました。

初めて私は「吾輩は猫である」以外で文学といわれるものをおもしろいと思いました。

筋ではなく,底に描かれている人間の模様がおもしろいと思ったのです。私にとってはこれまでになかったことです。そういうことにおもしろさを感じることができるなど,思ってもみませんでした。

そして驚いたことに、私はこれを改めて紙の本で読んでみたいと思いました。それもよい装丁の本で。

私は今後近代文学や現代文学を読み続けてみたいと思っています。だから,書棚にこれまでおこうという気持ちすらなかった現代,近代文学の本を大事に並べていこうと思います。

大きな井戸を掘り当てたうれしさでいっぱいです。

だって目の前にはこれから私がいくら楽しんでもきりがない、巨大な文学の海が広がっているから。

本の紹介

25年前の海外生活,PC事情,メモや手帳のことなどについて書いてます。

「私のシドニー派遣教員日記」
現地の児童相手になんとか楽しい授業をしようとジタバタしたことが,今の自分をどのように作っているのか。




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