僕らがパソコンを始めたのは80年代の中頃だった。
結婚したての僕は、嫁さんに頼み込んで、PC-8801MHという、フロッピーディスクドライブ2基搭載のモデルをかってもらった。
パソコン本体、モニター、プリンター、キーボード合わせて36万円もした。
追記2014年10月18日
(これは、MHよりもさらに後継のFAという機種ですが、見た目はこんなものです。Flickrより表示させていただいています)
全面に二つ並んでいるのがフロッピーディスクドライブで、レバーを横にガシャンと倒して薄いぺらぺらのフロッピーを差し込み、またガシャンとロックするのです。80年代初頭は、このドライブはまだ別売りで、ドライブ1基で数万円ださなければならなかったようです。これが二つも搭載。それも2HDという大容量のディスクがいれられるドライブということで高級感がすごくあったことを覚えています。
フロッピーディスクを知らない世代も居ると思うので・・・
右上が当初より2000年代中頃まで20年以上にわたって活躍した3.5インチフロッピー。
その下が5インチで、いわゆるパソコンの標準的なフロッピーでした。ぺらぺらしていました。Windows以前はほぼこれだったと思います。
左の大城なのは8インチで、これはあまりなかったですね。
でも当時は36万円が高いとは思わなかった。
車を買うのに80万円が高いとおもわないのと同じように、パソコンに30~40万円出すのを高いと思わない。
パソコンを買うということは、30万ほどの金を出すということだったのだ。
パソコンを買って何をしようとしたのか
当時はソフトウェアなどほとんどなかった。
自分で必要なプログラムを作るというのがパソコンの使い方だった。
それはとても魅力的だった。
「サイショノカズヲイレテクダサイ」 「1」リターン
「ツギノカズヲイレテクダサイ」 「2」リターン
「コタエハ 3 デス」
こんな簡単なプログラムでも、自分で作ったプログラムを走らせるとその通りに動くというのは実になんとも魅力的だったのだ。
なお、上の「リターン」というのは、今の「エンターキー」のこと。
ソフトといえばワープロソフトやゲームくらいで、表計算などはまだなかった。データベースはあったが、10数万円もする一般人にはかかわりのないものだった。
ゲームはもっとも初期からあったが、メディアによる販売などはまだ先のことで、当時はパソコン雑誌にのっているコードを自分で一行一行 何百行も時間をかけて入力してからようやく遊べるものだった。
ようやく打ち終えて、震える手で「RUN」というファンクションキーをおしたとき、一発で起動するということはまずない。
どこかしらに打ち間違いがあり、エラーが出る。
「Syntax error」という表示でとまってしまうのだ。
すぐにプログラムを表示させ、間違えている行をさがす。
「1」と「l(エル)」をまちがえていたとか
「;」と「:」をまちがえていたとかほんのちょっとしたミスだ。
これを一つ一つ潰していき、
ようやくプログラムが走った時はそこから始まるゲームのおもしろさよりも、このゲームを起動させることができた、という達成感のほうがまさっていたくらいだ。
僕がパソコンを買った頃はすでにフロッピーディスクが搭載されていたので、5インチのぺらぺらのフロッピーをドライブに入れて、これらの入力したプログラムを保存することができたが、それ以前はカセットテープにおとで録音するというやりかたで保存していたらしい。
だから、ゲームをたちあげるためにはテープを再生して「ピ^ヒョロピーヒョロ」というファックスの受信音みたいな音を10何分もかけて読み込ませなければならなかった。
それでもそれまでは自分で手入力していたのだから大した進歩だというわけだ。
僕はそのころの苦労はしらないが、おそらくその頃の人はそんなことは苦労ではなかったのだと思う。
きっと手入力していた頃を思い出しながら、「今は便利になったなあ」とわくわくしながら「ピーヒョロ」という音を聞きながらプログラームをロードする時間を楽しんでいたのにちがいない。
この動画を見ると、ここに書いてあることが実によくつたわるのではないかと思います。
こういうことにわくわくしていたのだ。
・・・・・・
うーむ。
わたしは、そんなことをするために36万円もだしてパソコンをかったのか?
いや、そうではない。しかし、それは一部分ではある。
当時パソコンは万能の機械だと思っていたので、パソコンさえあれば、プログラミングを覚えて、やりたいことをなんでもやれると信じていたのだ。
当時パソコンを買ったビジネスマンたちは、「これからはパソコンだ。Basic(プログラム言語)くらい組めないとやっていけない」と本気で信じ込んでいた時代。多くはそれで挫折し、討ち死にしてしまった。
私もその一人で、プログラミングを覚えて、成績処理をしようと考えた。
当時、テストの丸をつけたら、一覧表に点数を書いていき、電卓を叩いて平均を出していた。学期末には、一人分ずつ横にたしていき、平均をとるということを40人分やっていた。
これをパソコンでやれば一発だ、そういうプログラムをつくろう!と喜び勇んでパソコンコーナーでデータベースやプログラミングを本を買ってきて読んでいたものだ。
私に作れたプログラムはクラスの平均点を出す位が関の山だった。
「1バンノヒトノテンスウヲニュウリョクシテクダサイ」
数字を入れてエンターキーを押すと
「2バンノヒトノテンスウヲニュウリョクシテクダサイ」
これをずっと続けていく。
一番最初に「クラスニンズウハ?」はと聞かれるので「30」と答えておくと
「30バンノヒトノテンスウヲニュウリョクシテクダサイ」までで終わってくれる。
そこでエンターキーを押すと全てを足した数を最初に入力した30で割って、その平均を出してくれるのだ。
「ヘイキンテンハ75テンデス」という具合に。
2014年10月18日 追記
少しプログラミングの腕が上がると、入力した回数を覚えさせる変数をつくっておいて、入力する度にカウンターさせていきます。「○バンノヒトノテンスウヲニュウリョクシテクダサイ。オワリナラ”00”ヲニュウリョク」のようにしておくと、00を入力した時点でカウンターさせていた数をもとに合計をわって平均点を出す、ということができるように改良していきました。
実に素朴で、このような入力の仕方なら電卓でやっても大して変わりがない。
それでも自分で作ったプログラムできちんと平均点が出るということがとても嬉しかったのだ。
ただし、自分で作ったプログラムがほんとに正しく動いているかを確かめるために、もう一度後から電卓で打ち直して正しいかどうか確かめたという笑えない話も残っている。
こうやって、1年間がんばったが、おもったようは成績処理ソフトはとうとうつくれなかった。
でも、ぼくは幸い討ち死にしなかった
だんだん自分で入力したりプログラミングしたりしなくても、人が作ってくれたソフトや、パッケージ版のソフトが出まわるようになり、「パソコンで何かをする」ことができる時代に本格的に入っていったからだ。
それはワープロとゲームに著しい。
さまざまなワープロソフトが登場した。
「スーパー春望」
「オーロラエース」
「P1(ピーワン)」
まだまだ数行しか表示できないポータブルワープロが全盛の時代、おおきなCRT画面でカラーで表示されるPC版のワープロは夢の様なものだった。
ワープロで学級通信を書く。
ワープロで提出文書を書く。
ワープロで指導案を書く。
ワープロで・・
ワープロで・・
ワープロをつかえばあれもできるこれもできる。
パソコンでつくる時代からパソコンのソフトの使い方をさぐる時代へと入って行くことができた。
それはプログラミングよりも数倍おもしろかった。
私は討ち死にせず、うまく波にのれた。
私が初めてパソコンを買った1986年の12月頃というのはそのような年だった。
イノベーションを目の当たりにした実感のあるとても楽しいころだった。
つぎは、ゲームの事を書いてみよう。
きっと楽しい・
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