夕食後、食卓でしばらくの間「古今和歌集」を楽しむようになって一ヶ月ほどたちます。
それまでは、私の感覚にあっているのは万葉集で、古今集あたりはよくわからんと勝手にきめつけていたので、ちょっと反省し、まずは読んでみようと思って本を買ってきたのでした。
読めば読むほど、古今和歌集の世界が好きになってきています。
当時の人の心のひだに触れる感じがするのです。
その人がもみじを見てこう思ったというなまなましい感覚が1000年の時を一気に超えて私に届いているような気がします。
大空の月の光し清ければ 影見し水ぞまづこほりける
題知らず 詠み人知らず
これは冬の歌に入れられています。
「空の月がひとしお冴え渡っていたから、それを映していた庭の池の水が真っ先に凍ったんだろう」という歌ですが、なんという感性だろうかと思います。
空の月がさえているので、それを映している池の水が凍ったんだろうなんて・・・
そういうものの感じ方が、平安朝の頃の人はできていたのだなあ、としみじみと思った今日のゆうべでした。
それよりすごいのは、こんな詠み人知らずの歌が、紀貫之のような有名な歌人と同列に並べられていること。
読み人知らずということは、なんらかの政治的理由などがあって名を伏せたけれども当時の人は、ははあ、あの人だと知っていた有名な人かもしれません。はたまた、本当に読み人知らずなのかもしれません。
どちらかはわかりませんが、勅撰和歌集というような正式な歌集に、そんな人の歌まで掲載するというのは実に文化的に高いなあと思うのでした。
そういえば、万葉集などは、天皇の歌も、東歌も防人歌などの貴族以外の人が歌った歌も、もどれも平等に収められています。おどろくべきことです。
「知的生活の方法」の渡部昇一氏は、このようなことを「和歌の前の平等」といっています。
こんな「よいものには、貴族も平民もなし」というような文化に対する姿勢は、当時の世界のどこを見渡してもないのではないでしょうか。
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