※200-9-27 更新しました
元禄御畳奉行の日記という本があります。
元禄時代に書かれた「畳奉行」という役職についていた武士の日記です。
芝居が好きだったり、大酒飲みでその度に後悔するものであったり。
芝居好きがいつの間にか芝居論評家となる。
ある時は安心し、ある時は発奮する。
好きなことをただ書き続けることができるということは素晴らしいです。
日記は、その人の人生と自分とを重ね合わせて見ることができる。
これ,横山光輝によるマンガも出てるらしいですね。
後世の私達は,当時の人の生活ぶりがわかる日記をとても興味を持って読みます。
「読み物」として読みます。
しかし,これを書いた本人は,後世,自分のプライベートの記録が読み物として読まれるということを考えたことが合ったのでしょうか。
もちろん,ないと思います。
だから,赤裸々な感情や出来事がそのまま伝わっていておもしろいし,歴史の第一級資料となるわけです。
しかし,ところどころ,人にはわからない暗号のような書き方をしているところがあるほどですから,読まれてしまう,ということは意識していたことも間違いないですね。
読まれることと,読まれてしまうことをは意識上の違いがあります。
読まれてしまう,という意識は,「隠す」という書き方になります。
あくまでもプライベートのことを書くのですが,読まれてもばれない,という書き方をするわけですね。
なら,書かなきゃいいのに,と思いますが,それを書くのがまた日記です。
バレるかもしれないとおそれつつ,それでもやはりばれないようにした上で書きたいのです。
あくまでプライベートを書くものです。
「読まれる」ということを前提とした日記は,それなりにあります。
永井荷風の「断腸亭日乗」などは,その例だと言われています。
日記の体をしつつ,読みものを意識して書いているわけです。
これは日記と言えるのでしょうか。
それを読む私達は,昭和の初期の東京の風情や人の考え方にとても興味を持って読みます。
うそがかいてあるわけではないので,ある程度底に書かれていることの信憑性を信じて読んでいます。
しかし,行動の仕方や考え方に若干の誇張があるのは事実ですので,その点,差し引いて読まないといけないということもわかって読んでいます。
資料という読み方ではなく,あくまで「読み物」として,永井荷風が意図した読み方で読んでいるわけです。
更新履歴
2017年5月12日 公開
2020年6月22日 追記
2020年9月27日 タイトル更新