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パソコンを持っていると、ファミコンでは味わえないような大人向けのゲームができるアドバンテージがあった

黎明記

前回に引き続き、ゲームにはまっていた時代のお話を・・・

 

いったい、知的生活と何の関係があるのか、というような連載になってしまってますが、もう好きでたまりませんので、それはそれとしておつきあいを・・・

どこかで話しておかないといけないという声が耳の奥で・・。

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 パソコンを持っていると、ファミコンでは味わえないような高性能の、美麗な、大人向けのゲームができる。
 これがパソコンのアドバンテージだった。

 

 90年代初頭というとPCエンジンとかメガドライブなどパソコンのグラフィック性能を凌駕するゲーム専用機が出始めて頃だか、私にとっては単なるおもちゃでしかなかった。

 即ち、ゲームしかできない中途半端なおもちゃ。

 

 こう書くと、当時の開発者の方に申し訳ないのだが、ゲームしかできない機械に何万も払うなど考えられなかったのだ。

 

すでにスーファミが出ていて、スムーズな拡大縮小や画面の回転が話題になっていたが、パソコンでのゲームにどっぷりはまっていた私たちには、それがどうした、という感じだった。

 

次々と新しいコンセプトの作品が出てくるパソコンゲームと違って、回転や縮小という高性能なグラフィック性能のデモのために作ったんじゃないの?というようなゲームばかりだったから、あまり魅力を感じなかったのだ。

 

それより、都市型シミュレーションという新ジャンルを生んだシムシティや、天地創造テラフォーマー型シミュレーションを生んだポヒュラスなど、新しい概念、新しいシステムを、次々と生み出すパソコンゲームのほうが、何倍も魅力できだったのだ。

この辺の感覚は当時の人ならよくわかると思う。

 

ちなみに本格的な、本当に重力や浮力、慣性などまで感じさせるフライトシミュレーションは、とうとう高性能なゲーム専用機では出ていないと思う。

 

いくつか試してみたが、みな操作して楽しい、お空が気持ちいい、というようなものばかりだった。

 

後ろに回られた戦闘機の、その後ろを取り返すのに思い通りに機体が旋回できずやきもきしているうちに、どこから飛んで来たのかもわからないようなミサイルに撃ち落とされてしまう。

そんな本格的なシミュレーションは専用ゲーム機では必要ないのだ。

ここに本来シミュレーションとしての力を発揮するパソコン用のゲームと、娯楽を第一とするゲーム専用機との違いがある。

旋回したくても簡単には旋回できない、そんな本物の操作感を再現して楽しむのがパソコンのゲームなのだ。

 

そして、私たちパソコンでゲームをしていたものたちはみんなそんなゲーマーだったのだ。

 
だから、私たちは90年代の中頃から次々と出てきたゲーム専用機に移ることはなかった。
パソコンで本格的なシミュレーションをするのが楽しかったからだ。

 

 

94年にWindowsマシンを手に入れる。

 

 その後一気にゲーム熱は冷める。Windows用に次々に出てくるゲームに、ゲーム専用機ではすでにできていたことをパソコンでもやれますよという逆点現象を感じ始めたからだ。

 

最早、パソコンでゲームをする必然性はなくなった。

 

昔のゲームの復刻版が出たので買ってやってみた。

昔より高性能になっている。

だから、興が冷めてやめた。

昔のゲームは昔のままでいいのに。性能を上げたって、今の最先端のものに敵うわけないのに。

 

そんな中で、信長の野望や三国志などは、うまく時代時代の最先端のグラフィック能力を取り入れなが、徐々にバージョンアップをするという道を選んで成功したといえる。

 

フライトシミュレーションは、いつのころかゲームに触発された人がハイジャックをして本物の機体を操縦した挙句、世の中から無くなってしまった。

今は、パソコンで本格的なフライトシミュレーションを楽しむことはできない。あれこそがパソコンでゲームをするということの最大の理由付けになるものだったのに。

そしてパソコンでゲームをすることのアドバンテージをはっきりと感じられるものだったのに。

 

しかし、そんななかで、昔のパソコンゲームを現代に読み越えらせて大成功した作品がある。

ポピュラスというゲームだ。

 

90年代初頭に9801版で出ていた。

神になって私を崇拝する民をふやしてエネルギーを稼ぐ、そのために、民のいる場所をできるだけ平らにするのだ。

そうすると大きな家が建てられるので、民が増えてエネルギーがたまり、相手の神様を崇拝する民の土地に地震を起こしたり火山を作ったり、沼地にしたりして災いを及ぼすことができるようになる。

 

もちろん向こうからもしかけられる。

自分の民が、ある瞬間に村ごと沼にはまって全滅してしまう。

広大な平野で繁栄していた民たちの真ん中に突如巨大な火山がそびえ、あふれ出るマグマですべてが無に帰してしまう。

 

そんなこんなを繰り返しながら最後は圧倒的に増えた人口の力で敵の神をやっつける、というゲームだ。

 

一ゲーム1時間もかからない。

はまりにはまったものだ。

 

そして、1999年。これが本格的な3Dのゲームとして蘇った。

ポピュラス・ザ・ビギニングという名前になった。

もともとあったゲームシステムを、Windowsの描画性能に合わせて正しい進化をさせたゲームだと感じた。

焼き直しではない、かといって、新しい性能へのおもねりでもない。

そんなゲームに仕上がっていた。

 

今の私は、もうパソコンでゲームをしなくなって10年以上たつ。(注 2014年当時)

しかし、このポピュラス・ザ・ビギニングだけは、時折立ち上げてははまり、その後2週間くらいはプレイし続けることになるのだった。

 

次はどんなコンセプトのゲームが登場するのかとわくわくしながら待っていた90年代初頭のあの頃。

イノベーションを肌で感じられたとても楽しい時代だった。

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