夕方の道ばたで、体の大きな男が、声を上げて泣いています。
男は26歳。イギリスの北の炭鉱で、石炭を引き上げる機械の番をしていました。
それから20年ほどのちに、世界の鉄道の始まりをつくることになる、ジョージ・スチーブンソンです。
サミュエル・スマイルズの『自助論』に出てくる偉人の話を、私が朗読し、AIが漫画にして動画にしています。
再生リスト漫画「自助論」の2本目が、このスチーブンソンの話です。

目次
道ばたで泣いた26歳
妻を病気で亡くしてから、1年あまり。
悲しみをこらえて、やっとためたお金まで、ジョージはすっかりなくしてしまいました。
ためたお金は、目が見えなくなった父の借金を返すのに使いました。
そのうえ、兵隊に取られるくじにも当たってしまい、代わりに行く人を雇うと、もう何も残らなかったのです。
いっそ、炭鉱も機械も捨てて、アメリカへ渡ってしまおうか。
けれども、その船賃さえ、もうありません。
家では、まだ小さな息子が、父さんの帰りを待っています。
後年、ジョージはこう打ち明けています。
あの道で、わたしはひどく泣いた。自分がこの先どうなるのか、まるでわからなかったんだ。
それでもジョージは、袖で顔をぬぐって、また歩きだしました。
何度見放されても、15年ものあいだ、機関車をやめなかった男の話は、ここから始まります。
字が読めなかった機関手
話は、ジョージが子どものころにさかのぼります。
炭鉱の火夫の家に生まれたジョージは、学校には行けませんでした。
取りえは、力くらべの強さと、仕事熱心なことくらいだったそうです。
17歳になると、ジョージは炭鉱の機関を受け持つようになります。
機関が好きでたまらず、休みの日には、ばらばらにして仕組みを覚えました。
もっと知りたい。
ワットの蒸気機関のことは、本にくわしく書いてあると聞きました。
ところが、ジョージは字が読めなかったのです。
18歳のころ、ジョージは村の夜学に通いはじめました。
なかにいるのは、ほとんどが坑夫の子どもたちです。
そこへ、大人の体をした大きな若者が、背をかがめて入っていくのですから、恥ずかしくなかったはずはありません。
それでもジョージは、通いつづけました。
昼は機関の火のそばで、先生が石板に書いてくれた問題を解き、夜になると、それを見せて次の問題をもらって帰ります。
19歳で、ジョージはやっと、自分の名前が書けるようになりました。
そのあとも何年も、ジョージは学ぶことをやめませんでした。
食事の合間に少しでも時間があくと、そばにとまっている石炭の貨車に近づいて、チョークを取り出します。
すすで真っ黒な貨車の横腹に、白い数字が、一つ、また一つと並んでいきます。
やがて馬が貨車を引いて動きだすと、ジョージの書いた計算も、貨車と一緒に、ごとごと運ばれていきました。

21歳で、ジョージは、下宿先で働いていたファニーという娘と結婚します。
式のあと、ジョージは教会の帳簿に、自分の手で名前を書きました。
ペンを握る手に力が入りすぎて、インクのしみが一つ落ちてしまいます。
それでも、2年前までは書けなかった、自分の名前でした。
まもなく、息子のロバートが生まれました。
自分は字が読めずに苦労した。この子には、ちゃんと学校へ行かせてやる。
ジョージは、小さな息子を見てそう決めました。
けれども、家族そろっての暮らしは、長く続きませんでした。
炭鉱を移ってまもなく、ファニーは肺の病で亡くなります。
そのあと、ためたお金までなくして、ジョージは道ばたで泣きました。
それでもジョージは、炭鉱に残りました。
息子を学校へやるために、夜は近所の時計を直して、少しずつお金をためていきます。
やめる理由は、いくらでもあった
1812年、ジョージは31歳で、炭鉱の機関をまとめて受け持つ技師になりました。
そしてジョージは、馬のかわりに、蒸気の力で石炭の貨車を引く機関車を作りたい、と言いだします。
炭鉱の持ち主がお金を出してくれましたが、笑われたのは、その持ち主のほうでした。
あんなものに金を出すなんて、ばかだ、と言われたのです。
腕のいい職人もいなければ、道具もありません。
ジョージは職人たちに、一から作り方を教えました。
1814年の夏、ジョージの1台目の機関車が、炭鉱の線路を走りました。
ガタガタ、ガタガタと、ひどく揺れます。歯車もうるさく鳴ります。
それでも、ちゃんと石炭の貨車を引いて走りました。

ところが、1年たって勘定してみると、馬で引くのと、かかるお金がほとんど変わりませんでした。
これでは、わざわざ機関車にする意味がありません。
ジョージは、あきらめずに工夫を続けました。
次の年の機関車では、使い終わった蒸気を、煙突の中へ上向きに吹き上げるようにしました。
すると、火が勢いよくあおられて、機関車の力は倍になりました。
けれども、機関車は広まりませんでした。
それから8年のあいだ、ほかの土地には、機関車の走る鉄道が一本もできなかったのです。
遠くの炭鉱へ送った機関車は、重さで鉄のレールを割りつづけて、結局、馬に戻されてしまいました。
広まらなくても、ジョージのいる炭鉱では、機関車が毎日、石炭を運びました。
ジョージは、走らせることをやめなかったのです。
やがてジョージは、リバプールとマンチェスターという二つの大きな町を、鉄道で結ぶ仕事をまかされます。
1825年の春、鉄道を通す許しを得るために、ジョージはロンドンの議会に呼ばれて、証言台に立ちました。
反対する側の弁護士たちが、わざと答えにくい問いを次々に重ねてくると、北の炭鉱の強いなまりがあるジョージは、言葉に詰まってしまいます。
それでも一度だけ、ジョージが場をわかせたことがあります。
機関車が走ってくるところへ牛が迷いこんだら、たいへん困ったことになるでしょう。
そう聞かれて、ジョージは目をきらりとさせて答えました。
ええ、困りますな。牛のほうが。

けれども、笑いがおさまると、また問い詰められます。
議員の一人は、あなたは外国人かね、と尋ねました。
別の議員は、この男は頭がおかしいのではないか、とまでほのめかしました。
ジョージを本当に追いつめたのは、こうした悪口とは別のことでした。
部下に任せていた土地の測りかたに、まちがいが見つかったのです。
弁護士たちにそこを突かれて、ジョージは答えられませんでした。
鉄道の計画は取り下げになり、ジョージは技師の役を外されます。
友だちからも、信用を失ってしまいました。
ジョージはのちに、これが一生でいちばんつらい試練だった、と振り返っています。
穴があったら入りたかった。それでも、どんな仕打ちにも耐えて、決して負けまいと思った。
それでも、やめなかった
翌年、道筋を変えた計画が認められ、ジョージは技師に戻りました。
けれども、戻った先で待っていたのは、底なしの沼でした。
入れても、入れても、土は沈んでいきます。
見ていた人たちは、こんな所に鉄道なんて無理だ、と首をふりました。
それでもジョージは、沼のそばを離れません。
ジョージの口ぐせは、やり抜け、でした。
埋め続けるんだ。入れた土は、見えない所で、ちゃんと働いている。
ジョージは働く人たちにそう言い、沼の上に、少しずつ線路の道ができていきました。

1829年の春、鉄道の完成が近づいたころ、最後の大きな壁が立ちはだかります。
国でいちばんと言われる技師たちが、貨車は機関車で引くのではなく、線路のわきに据えた大きな機関で、綱で引っぱるほうがいい、と報告したのです。
ジョージに味方する人は、ほとんどいませんでした。
それでもジョージは、言いきります。
機関車の鉄道は、いずれ、世界の大通りになる。
鉄道の重役たちは、機関車がほんとうに使えるのかを、競技会で決めることにしました。
機関車で貨車を引くやり方が使えることを、今度こそ走りで見せる。
ジョージは、競技会に向けて動きだしました。
競技に出す機関車を作ったのは、技師になった息子のロバートでした。
字の読めなかった父が、夜なべで時計を直して学校へやった息子が、いまは25歳の技師になっていたのです。
父が機関車を走らせながら重ねてきた工夫を、息子が受け継ぎました。
その一つが、1815年に父が見つけた、使い終わった蒸気を煙突へ吹き上げる仕組みです。
息子は、細い管を何本も通した新しいボイラーと、父のこの仕組みを組み合わせました。
父の15年が、息子の機関車の中で、生きていたのです。
名前は、ロケット。

1829年10月、レインヒルの競技
1829年の10月、リバプールに近いレインヒルという所で、機関車の競技会が開かれました。
まるで競馬の大レースのような人出です。
着飾ったご婦人たちの席がもうけられ、線路のわきには、馬車がずらりと並んでいます。
勝つ条件は、平らな線路を20往復、合わせておよそ110キロ。
それを平均で時速16キロより速く、最後まで走り切らなければなりません。
けれども、ロケットには人気がありませんでした。
見た目がぱっとしないというので、集まった人の9割より多くが、ほかの機関車を推していたそうです。
10月8日の朝、ロケットの番がやってきました。
火を入れてから、蒸気が十分に上がるまで、1時間近く待ちます。
父と息子は、並んで、じっとロケットを見ていました。
やがて合図がかかり、ロケットは13トンの貨車を引いて、ゆっくりと走りだします。
1往復。まだ走っている。
5往復。まだ走っている。
10往復で、半分。それでも、まだ走っている。
速いところでは、時速およそ47キロに達しました。
20往復。ロケットは、とうとう走り切りました。
観覧席の前に、ロケットが止まります。
それまで機関車に反対していた鉄道の重役が、両手を挙げて叫びました。
これでジョージ・スチーブンソンも、とうとう、やってのけたぞ。

ジョージは、となりの息子のほうを向きました。
息子も、父さんの顔を見ています。
若いころ、貨車の横腹にチョークで計算を書きつづけた手で、ジョージは、黙って、息子の肩を抱きました。
二人はしばらく、そのまま動きませんでした。

スマイルズが書き残したこと
ジョージ・スチーブンソンのことを『自助論』に書き残したのは、サミュエル・スマイルズです。
スマイルズは、こう書いています。
スチーブンソンは、若い人たちに話すとき、いちばんの助言を、いつもこのひと言にまとめていた。私がしてきたように、やり抜きなさい。
スチーブンソンは、機関車の改良を15年ほど続けて、レインヒルで決定的な勝ちをおさめたのである。
あなたが、何年もやめずに続けてきたことは何ですか。

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