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思考訓練のインフラとしてのブログ

知的迷走日記保管庫

 人は意図しない方法で思考訓練を日々行っていることと思う。

 Twitterで思いを書き連ねることもそうだろうし、読書ノートをとることもそうだろう。
 昔は手紙をそのように使っていた人もいた。

 0秒思考メモなんていうのはその最たるものだろう。

 私のリラックスノートもそうだ。リラックスしていろいろポツポツ何かを書いている時に出てきた言葉今度はそれを施行して展開していくことがある。

 思考訓練の導線としての役割を果たしている。

 しかしブログで思考訓練を行うと言う事はあまり行っていない。

 なぜならば、ブログは思考したことを書く生産と発表の場だと思っているからである。

 自分が持っていることや、思考した結果生まれたことを1つのプロダクトとして残すことがブログと言うメディアだと言う風な捉え方をしてきたわけだ。

 

 しかし中にはブログを書くことで思考している人もいない事は無い。

 書き始めと書き終わりがうまく合ってなかったりするがそれは思考訓練として行われている限り当たり前のことだと思う。

 

 性格として、これらの文章は、人に読まれることを前提とはしていない。

 あくまで、自分の思考の訓練で、思考の後の記録という個人的な性格を持つ。

 その上で、興味がある方はどうぞ読んでもらって結構です、というそんな性格を持つものだろう。

 

 大方は、そのような役割はTwitterの連投というような形で行われてはいるし、私自身もそうしてきた。

 しかし,Twitterでは一つ一つの字数の制限によるTweetのし直しが面倒だったり、考えか途切れたりするデメリットがある。

 逆に言えば、一つ一つ塾考できるというメリットがあるということが言えるのだろうが、私はあまりそれを感じたことはない。

 

 思考の訓練としては、フリーライティングが考えられる。

 しかし,あれは脳のリミッターを外し,発想を促すことを出すことをねらっているため性格が異なる。

 やはり、ノートに考えを書き留めて形にすることが一番であると思われる。

 

 では,私にとっては,思考訓練という役割はやはりブログに持たせることはできないのだろうか。

 当然できないことはないが,私のマインドセット,ここでの意味は自分で作っているブログを書くということについてのパラダイムであるが,それを少々変える必要がある。

 

 私はブログを書く時,「読んでもらいたいな。」「たくさんの人が読んでくれそうだな」など,読者を想定した書き方をしている。

 それをちょっと変える必要があるのだ。

 つまり,「この記事は,読んでもらえるために書くのではなく,自分の思考訓練のためのフィールドとして書くのだ」と。

 

 このブログは「知的生活」という,ある意味何でも結びつくような幅広い分野について書いてきたものだ。もともと雑多なのである。

 だから,2400という記事の中には読んでもらいたかろうとすでに深く沈んで浮き上がってこない,検索にさえかからないような記事が何百とあるのだ。

 そう考えると,このブログを思考訓練のためのインフラだと考えてもよいと思われる。

 

 こういう記事はきっとMediumが担うのがよいと思うが,せっかく整備してきたインフラだ。

 できるだけ活用しよう。

 

 すでにこの記事自体が読まれることを意識していない思考訓練になっている。

 

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