利己的なはずのストーリーが、実は集団を多様にする。

Hibikiさんは、「かーそる」執筆人の一人であるchoiyakiさんがアシタノレシピで大好きなブログとして紹介されていたブログ「23-seconds blog」の中の人。

確かに丁寧な、よく練られた言葉は、読んでいてしみ入ってくる。

Hibikiさんは、「私は、「知的生産技術が当時には言及できなかったことについて取り上げます」と言われ次の二つの視点を提出された。

一つ目は

「知的生産をはじめとした、時間のかかる楽しさを知っていること、あるいは楽しさには時間がかかる種類のものがあることを知っていることは有利」

ということ。

二つ目は、

「時間をかけて、個人的な知的生産に取り組むことは、私たちが所属する集団を、脆弱さから遠ざけます。よりよい集団を思う、積極的な社会参加の手段です。」

ということ。

時間のかかる楽しさを知っていることについて

楽しさというときに、Hibikiさんは、「楽しさ」というものは自分から求めて何かに向かって行くものである以上、そこには時間の観念が芽生えるよと言われる。

経過した時間への感動と、消費する時間への空想があるため」という言葉で表現されている。

 

ブログを書いている自分を思い出した。

ブログを書く時に、「こういうことを書きたいな」、「書けたらみんなが読んでくれるだろうな」「いいね、といってくれるだろうか」などと未来のことを空想してわくわくするし、書いているときには「これだけ書けた。もう少しだ」と経過した時間による積み重ねに手応えを感じながら書いている。

今もそうだ。

しかし、この時間は「楽しく」はあるが決して「楽」ではない。

この文を書くに当たって、昨晩からWorkflowyに内容を書き連ねて読解し、それを入れ替えで一通りの文をつくり、今それをまた書き直しながらまとめている。

むしろ「大変」だ。

しかし、「楽しさ」とは本来そんなもので、時間をかけないと味わえないものこそ、むしろ本当に楽しいことじゃないの?と言われるわけだ。

手応えである。

刹那的な楽しさ、というのは「勝手に限定された情報から正確さとか厳密さとかにはお構いなくストーリーを即座にでっち上げて、それでいてよく過ちを犯す」速い思考のキャラクターとしてあげられている「システム1」が働いているだけなのかもしれない。

「自分が心から満足できて、人生を生きる意味だなどと納得したつもりのことはシステム1のちょっとした誤りなのかも知れません」

これはわれわれにとってリスクなのだ。

知的生産は楽しいがしかし時間がかかる。

しかし、それが実は自分から求めている楽しさなのであり、手応えのある、本当の楽しさなのだ。

私は今、この論文を読み解くために膨大な時間とエネルギーを使っている。楽しみながら。システム1が出張ってくることを押さえ、システム2を一生懸命に表に出しながら考えた。そしてこれを書いている。

楽しい。

そして他の人にわかる形で提出しようとしている。

まさに時間のかかる楽しい、知的生産だ。

個人的な知的生産は、実は積極的な社会参加の手段だということについて

「頭を働かせる割合が個人の領域に多いほど、作り出された情報は、ユニークと言いますが、他者と似ていないものになるはずです。そうした個人が多くなると、社会には、多様な情報が飛び交うことになります。複雑な集団になります。」

テンプレートに沿った判断は楽で速いが、頭で考える必要がない。

「~訓」とか「~十戒」など、グループの根本原理となるような考え方は大事だが、それに縛られてしまうと、それに乗っかってしまうだけになり、個人のユニークさは出てこない。

どこかの国や、いつぞやのあの国のように。

それはつまり、単純でもろい集団になってしまうわけだ。

「所属する要素たちが、各々で似ていないほど、集団は強靱になります」

逆に、個々が頭で考える集団は複雑であり、こちらをつついてもあちらががんばるので強靱になる。

「時間をかけた、個人的な知的生産の技術は、個人を、他とは似ていない個人にするのでした」

だから、「時間をかけて、個人的な知的生産に取り組むことは、私たちが所属する集団を、脆弱さから遠ざけます。よりよい集団を思う、積極的な社会参加の手段です。」ということになる。

本来個々のものであるはずの知的生産がじつは所属する集団を強くすることになるとは。

 

また、ブログのことを考えた。

世の中にブログが生まれた十数年前から、少なくとも時間をかけて頭を働かせ、人にわかる形で提出する人たちが爆発的に出現した。

もしかしたら、個々の営みであるこのブログという手段は、私たちの所属する集団を強固にすることに役だっているのだ。

KindleのKDPもかな。

だから、ぼくは教師は本を書くべきだと言い続けているのかもしれない。

まとめにかえて

どちらの視点も、私の思考は読むうちに「ブログを書くこと」の意味につながっていった。

これもまたおもしろい。

まさか、この記事を書くまで、Hibikiさんの論文がブログを書く意味に通じるなんて思いもしなかった。

 

そして、もうひとつ思ったことがある。

2年ほど前にはやった「好きなことで生きていく」という言葉だ。

子ども達の中に安易にはやっていくことに不安を覚え、記事を書いたことがある。

好きなことをして生きていくという言葉について | 知的生活ネットワーク

大人が言うぶんには別にかまわない。

それぞれ人生経験も経た中での「好き」にはそれなりに重みがある。その上で選んだ人生について、とやかくいうことはない。

しかしこの言葉を子どもや学生が使うと、それはどうも上滑りしたものに感じる。

「好きなことをして」、という言葉を、地道な努力や生業を放り出して、人生上のわがままを言ってもいいととらえているように感じることがあるのだ。

まだ、十分に「好き」が吟味できていない子どもがこの言葉を使う事への違和感。

それはもしかしたら「好きなことで生きていく」というこの「好き」がシステム1による誤りである可能性が十分考えられることへの、そしてそのことに子ども達が気づいていない事への不安だったのかもしれない。

本の紹介

25年前の海外生活,PC事情,メモや手帳のことなどについて書いてます。

「私のシドニー派遣教員日記」
現地の児童相手になんとか楽しい授業をしようとジタバタしたことが,今の自分をどのように作っているのか。




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