午前中仕事があり,へとへとになって帰って午後は夕食まで寝込んでいた。喘息決定。息が苦しい。頭痛もする。

なにやってもだめななか,「かーそる」を何とか読み進めようと思いKindleを立ち上げるが,まだ倉下編集長の知的生産論すら読み終えられない。


かーそる 2016年11月号

でもその中で,

「ある時期に強く光り輝いていた「知的な」ものへのあこがれは,学生運動が社会を変えられなかった挫折と共に縮小し,日本経済が勢いよく成長していく中で存在感を薄め,さらにバブルの崩壊とともに居場所をなくしつつあるのかもしれません」

という箇所にハイライトを入れた。ああ,そういうとらえ方ができるのかと思ったのだ。

◇ ◇ ◇

私の中では,そういう感覚はない。

学生運動が終わり,経済が発展する時期は私の中学,高校,大学時代にあたる。バブル崩壊は社会人となって10年目のことだ。

この間,個人としての感覚では,ずっと知的なものにあこがれ,おい求めてきた。

学生時代は,親戚の中で自分が「大学」という最高学府に進学する初めての人間だったので,学ぶということを当然求められる環境の中にあったし,自分自身が学ぶために学校へ行くということを信じ,それをしっかりと受け入れていた。

だから大学でもまわりがパチンコやマージャンなどをして楽しんでいる中,私は下宿の一間で歴史書を読むという生活を好んだ。

 

そうはいっても,下宿にいて一人でいることは難しい。

毎晩のように友達が訪ねてきてその後どんちゃん騒ぎになる。友達は私の作るカレーを目当てによく夕方になるとやってくるのだ。彼らが持ってきた酒を飲みながら談笑し,夜中になると,外で飲んで酔っ払った別の友達が乱入してくる。

まあ,しかし,それはそれで,こんな時間はとっても楽しかった。

 

しかし,彼らが自分の下宿や部屋へ戻っていく深夜1時ごろから,私はまた一人になって書を読む。そういう生活を好んだのだ。

4畳半という狭い部屋の中の一角に本棚を買い,そこに大切な本を一冊一冊置き場所を決めて丁寧に並べていく。なんだか私の知の世界が形成されていくのが目に見えるようでワクワクしながら書物を集め並べていった。自分のライブラリーつくりをしていたのだった。

私が後年,渡部昇一氏の「知的生活の方法」を読んではまりこんでいくもとになる素地はすでにできていた。

この生活は,十分に「知的」生活と言ってもいいのではないか。

 

私はそうだった。

 

だから私にとって,「知的な」ものへのあこがれは,縮小もしなかったし,存在感はますます強まっていった。

居場所がないどころか私自身を征服してしまったのだ。

社会の中においてそれがどうであったか,などとは考えたこともなかった。

 

それが,編集長の知的生産論のこの一文を読んだとき,一気に自分の中の「知的な」ものへのあこがれが相対化されるのを感じた。

私自身が「知的な」ものへのあこがれをますます強めていく中で,世の中は編集長の書くように逆に居場所を失っていっていたのかもしれない。

渡部昇一氏をはじめとした方々が「知的生活」という語を冠した本を次々と著していったが,それはもしかしたら知的生活の勃興,発展というとらえ方よりも,世の中の知的なものへのあこがれということが薄れてきたことの表れと言えるのかもしれない。

◇ ◇ ◇

まだまだ,読み始めて数ページにしかならないのに,読み進めることをいったん止めてこんなことを書き連ねていた。この時間があったらさらに読み進められたろうに。

でもそれが楽しい。

本の紹介

25年前の海外生活,PC事情,メモや手帳のことなどについて書いてます。

「私のシドニー派遣教員日記」
現地の児童相手になんとか楽しい授業をしようとジタバタしたことが,今の自分をどのように作っているのか。




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