1988年からもう27.8年続けているデジタル日記。

私のPCにはそれだけの分量の日記が読める形で保存してあります。

ずっとPC9801で続けていましたが、1994年にWindowsマシンに変えた時に、いろいろ苦労してテキストデータをそちらに持ってきました。

データ受け渡しの方法なんて、フロッピーしかなかった頃。そのフロッピーでさえ、DOSV機とドライブと互換性がなくて読めなかったりなど、間に98noteをかませたりしながら1996年に全てのデータを何とか全部移してきて、今に至ります。

それだけの苦労をしながら継続をしてきた日記に,いったいどんな価値があるというのでしょうか。

ただ、単に昔を懐かしむことだけなのでしょうか。

もちろんそれもあります。

MOMENTOなどの自動日記アプリで過去のTwitterの行動記録やFlickrの写真とともに振り返ると、ついニヤニヤと見入ってしまいます。それはそれで尊いものだと思います。

2016-07-02 21.50.50

でもそれだけではない多くの価値があります。

これから数回に分けてその価値について考えてみたいと思います。

第1回 隠れてしまっていたことの掘り起こしからの再起動

毎日を必死に生きていると、これまでの人生の中で取り組んでは忘れていき、思いついては実行されないまま消えていったこともたくさんあります。

そんなものがたくさんあったのだということ自体、日記をつけていなければわかりません。

例えば、今,2006年の今日7月1日はどんなだったかな、と思ってページをめくっていたら、当時スタートしはじめた英語活動について、そこで使える挿絵集をつくるプロジェクトを起動しかけていたことが書かれていました。その後の仕事の忙しさなどで、そんなプロジェクトを立ち上げかけていたことすらもいつのまにか忘れ去ってしまっていました。

また、2009年の10月18日の日記に

「よりよい生き方というものを求めているうちに、朱子学に出会いました。少し前から勉強し始めています」

とあり、2010年3月9日の日記には

「寝る前の近思録。朱子学を一生かけて学ぼうと思っているが、そのスタート。11月くらいから読み始めているがまだ終わらない。ようやく半ばにさしかかったばかり」

などど書いています。

そして3月16日には,

「寝床でいつものように近思録を読んでいる。朱子学をライフワークにしたい」

とあります。

これを最後に私のデジタル日記から朱子学をという言葉は完全に消えます。10月に朱子学に出会って、近思録を求め、3月くらいまでは勉強を続けていたのです。ライフワークにしたいとまで思っていたことを、私は日記の中で発見するまで忘れていました。

しかし、はっきりと記録してあるのです。

これを掘り起こしたことが元で、私はまたこのプロジェクトを再起動させるかもしれません。

そんな宝物が、私の日記の中にはごろごろ眠っているのです。

これが,日記を続けていることのよさの一つ目です。

次回は,「記録があることからの自信」について述べたいと思います。

本の紹介

25年前の海外生活,PC事情,メモや手帳のことなどについて書いてます。

「私のシドニー派遣教員日記」
現地の児童相手になんとか楽しい授業をしようとジタバタしたことが,今の自分をどのように作っているのか。




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