01 知的生活へのあこがれ 04 一テーマ30冊マラソン

「続・知的生活の方法」を読んで再確認したこと

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一テーマ30冊マラソン進捗状況

「知的生活」30冊

「発想法」読了。3冊目

先週半分くらいまで読んでいて、今日、池の周りをウォーキングしながら読み上げてしまった。

私の座右の銘といってもいいことば「不断に 適度に」はこれに出ていた。

でも、実際には「不断に・適当に」だった。 (今日の写真参照)

私の頭の中で「適当に」が「適度に」と翻訳されてしまっていたようだ。

その他

読みたい本がいろいろとあって積読状態になっています。

とりあえず、これらを片っ端から全部読み終えてしまいたいと思っているのですが、すぐにまた読みたい本が出てきて買ってしまうという状況に陥っています。

身の回りに読みたい本がうずたかく積もっている、というのはなんだか、「読めない私」を突きつけられているようですが、「いつでも読める本がこんなに・・・!」と考えていくことにしましょう。

「続・知的生活の方法」からの再確認

先週、「続・知的生活の方法」を読んで抜き書きをしていましたが、ようやくまとめることができました。

学問の生活化

漢学者は、単に漢文を勉強したという「知的活動」のみではなく、漢学的な生活を何十年間かやってきたという「知的生活」から生ずる風格があったのである。

国文学者は和歌は必ず作った。学問が生活化していた。

職業としての教授は研究者であることは、そのまま知的生活者とはならない。

私が教師だから、教師の目でこの分を読むわけですが、昔は、教師は「聖職」といわれていました。

教師は、子どもを教えることのできる人としてリスペクトされていたわけです。また、そうであるからこそ、教師は一生懸命に勉強していたはずです。

だから、「教師」という学び続ける仕事を何年も続けているうちに「知的生活者」としての風格があったのではないかと思います。

しかし、残念なことに、敗戦により、教師は自信をうしなってしまいます。

そして、普通の人になろうとむやみに自分たちを卑下した時代もありました。「先生は教えてお金をもらっているのだから、君たちとは対等である。先生などと呼ばなくてもよい」などと子どもたちに言った先生がいたという話をきいたこともあります。人間としての対等性と、社会的な関係生徒をいっしょくたにしてしまうくらい、自分たちを卑下してしまったこのような状況では、とても「学ぶ人」としての風格は感じられなかったことでしょう。

今の時代、教師たちは一生懸命に学んでいます。

しかし、仕事で行う教材研究とは別に、家でも理科の実験をして楽しむ、とか、古代史の本をそろえて読むとか、国語の教科書に出てくる重松清氏の著作を全部読んで見るなどのことを楽しんでできる時間があれば、それは「生活化」だと思うのです。

教師というのは、知的生活者になるのに適した職業であるし、そうでありたいなと思っています。

機械的に

我々は文学作品であれ、絵画であれ、音楽であれ、「芸術」と言われる分野のものはインスピレーションによって出来上がると思いがちである。もちろんインスピレーションがなくて芸術作品が生まれるわけはないが、作品となのつくものは、その大部分はメカニカル、機械的な作業であることを悟らない人は、知的生産には無縁にとどまるであろう。

銀行員でありかつ作家でもある山田智彦氏が、いかにしてこの両者を両立させたかの体験記も、機械的に書くことの重要さを示していて面白い。氏が小説を書くのは、原則として休暇の時ではないと言う。普通ならば休みの時が文字通りの書き入れ時のように思われるが、そうではないとのことである。休みの時は休む、そして日常生活の時間のうちに、執筆のための時間を組み込むと言う。

若いころ、一念発起した文章にまた、出会いました。

この本を読んだ26歳のころは、まだ自分が何らかの表現をしたいという思いはなかったので、それを勉強に生かそうとした覚えがあります。
毎晩、時間が来ると自分の部屋(まだ書斎はなかった)にこもり、勉強を始めようと発奮したものです。

でも、当時は事務仕事に押しつぶされて、寝るまで仕事の毎日でした。なかなかタイムマネジメントがうまくいかず、長いこと苦しんでいたことを覚えています。

夜は無理と思い、朝5時おきを始めてようやく勉強時間をまとめてとることができるようになりました。

でもこれもインフルエンザにかかり1年で挫折してしまいます。

今、あらためてこの文を読み、毎日コツコツと機械的に行うことがどれだけ多くの成果を得るものかを再確認しました。

平日の時間の使い方を、もう一度考え直さなくてはなりません。

準備だけでおわってしまわないように

インプットばかりしていても作品にはならない。とにかく書き始めること。

これは、大学の卒業論文で実際に体験しました。

3年の冬頃、ようやく構想がまとまり、それから資料を集め始めたのですが、11月になってもまだたりない、という感じでした。

もうどうにも時間がないというときになって書きはじめたら、なんとすらすらとペンが進み、70枚ほどの論文を1週間で仕上げることができてしまいました。残りの1週間で清書して締め切り前に提出できましたが、もっと早くかきはじめていればよかったと思ったことをおぼえています。

今は、Workflowyなんかがあるので、とにかく書きはじめるということがとてもやりやすくなっていると思います。

個人の蔵書を充実させて累積効果を得る

個人の蔵書を時間をかけて充実することで、年を経てからその累積効果で続々と本を出し始めた人が多い。カントやダーウインなどは50歳過ぎてから大著が続々と出はじめる

これをよんで、あらためて思ったことは、「私には蔵書が少ない」ということ。

若いころから自分のライブラリーをつくるということを志して、少しずつ本を買いそろえてきたつもりですが、それでも少ない。
退職後にそれらを利用してどんどん知的生産を行うなどということにはとうてい及ばないと思います。

まだまだ、退職までには時間があるので、あらためて一念発起し、身の回りを良い本で埋めていきたいと思いなおしました。

知的生活のための経済的独立

権力におもねることなく悠々と知的生活を行うためには、経済的独立をすることが必要だ。

私は、若いころこの文を読んで、自分なりにお金を貯めることを志しました。

共働きではないので、自分でかってに使えるお金がそれまでなかったのですが、
何かしたいことがあった時、家計に迷惑をかけたくないばかりにやれない、というようになりたくなかったので一念発起しました。

臨時収入などはもらうなど、ルールを決めておいて少しずつ貯めていきました。

おかげさまで、本代はここから出せますし、私のもうひとつの道である「挿絵かき」についてのさまざまな環境をそろえるお金もここから出しています。
若いころ、経済的に独立できるようにしようという志をたてておいてよかったと思っています。

知的生活は、必ずしも知的生産を伴わない

知的生活は、必ずしも知的生産を伴わない。

知的生活は毎日の生活の質のことだ。毎日のライフスタイルである。根本的には内省的気分に入る時間を持つ生活である。人によっては、深い人生によって精神的な充足感を得る。また人によっては、その知的生活の結果を公に表現したいと言う激しい欲求が加わることがある。しかしライフスタイルとしては不変なのだ。その生活が知的に質が高いものであれば、表現の機会は一生のうち、2とか3度は訪れるはずだ、と信じつつ、毎日の生活を自分の気持ちで充実して行くことである。

僕は、知的生活は知的生産を生むものだと思っていましたが、生産ありきでなくてもよかったのだと改めて気づきました。

でも、できるなら生産もしたいとおもっています。

そのためには「知的生活の質を高めること」
それだなと思いました。








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